[あらすじ] 宮澤賢治 −その愛−(1996/日)
大正2年(1913)宮沢賢治(三上博史)は岩手県盛岡中学校の4年生だった。下宿先の寺に帰ると妹、敏子(通称トシ:酒井美紀)が友だちキミコと来ていた。寮生全員で舎監をつるし上げた事が新聞に載り、心配した父に言われて来たのだ。舎監が杓子定規だからさ―とあっさり言った。翌年、卒業。花巻に帰って来る。駅で知らない男と同伴するキミコを見かけた。賢治の実家は質屋の裕福な家だ。夜キミコの父、甲助(前田吟)が店に来る。質草の仏壇を買い戻しに来たのだ。主人の政次郎(仲代達矢)「よく金が出来たな」。賢治は家まで追っかけて「オキミちゃんを売ったのか!」と迫った。「飢饉で食い物もねぇ。あんたらに百姓の気持ちはわがんねぇ!」
しばらくして賢治は鼻の手術で入院した。担当の看護婦に惚れて、勝手に結婚を考えた。父に一蹴される、「18才で何を考えとるんじゃ!」。父は賢治を跡継ぎにしようと考えていたが、妻(八千草薫)に真面目過ぎて商売に不向きだとさとされる。皆で話し合っている時、妹トシが「お兄さん、盛岡農林学校で冷害対策を勉強したいと言っていたじゃない」と言う。
賢治は農林学校をトップ入学。冷害対策、特に土壌を専門とし、それは一生涯続いた。
大正9年(1920)学校を卒業した賢治は傾倒していた日蓮宗にさらに没頭し、翌年その団体‘国柱会’を訪ねて東京に行く。が入会を断られ、バイトをして、詩の創作をする日々が続いた。
妹の敏子は秀才で、日本女子大学に入り、卒業して花巻女学校で教師になっていた。が肺結核を患い、それを知って帰郷した賢治が昼夜看病をする。
やがて皆に押され花巻農学校の教師となった賢治であったが、更に翌年敏子が危篤、そして、帰らぬ人となる。慟哭の詩に読む、「あめゆじゅ とてちて けんじゃ」。
大正15年(1926)教師を辞職。自分自身で畑を耕し、実践農業を標榜する。‘羅須地人協会’を作り農業文化、農業芸術活動をするようになる。そんな中、賢治を好きだという女性(牧瀬里穂)が現われる・・・116分。
宮澤賢治生誕100周年記念作品として作られた。
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