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[コメント] そして人生はつづく(1992/イラン)

前作がドア(あるいは屋内と屋外の境界)の映画だとしたら、今作はその境界そのものが破壊された空間が舞台だ。唯一の屋内空間は車内だ。境界が破壊されたことでふいに他者が進入するスリル。魅力を放つ車窓から見たイランの山。ロングショットで撮られた車もまた魅力的だ。
ジョンケイ

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
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これはおそらく検閲を警戒してのことだろう。主人公が意見を述べる場面はほとんどない。主人公の息子や被災者の意見に対しての主人公のリアクションからキアロスタミの考えを類推するしかない。キアロスタミは小津安二郎を好むらしいが小津は日常的な会話や動作、インテリアなどから情感を醸し出すタイプの作家なので、検閲をすり抜ける手法としてキアロスタミは小津に興味を持っているのだと思う。ただこれは少し読みが政治的過ぎるか。小津とキアロスタミの関係はもっと映画的なものでもあるはずなのでまたどこかで考えたい。

で、話が戻るのだが主人公は前作で見られたように急激な近代化によるパターナリズム的な教育のあり方に疑問を持っているようだ。これは前作でもかなり強調されている。一方で前作に出演した老人から「年寄りをもっと年寄りに見せることが芸術なのかね?」と苦言を呈される場面がある。地震を起こしたのは神様ではないと息子は話す。どうやら主人公はそこまで熱心なムスリムではないらしい。どこかイランの宗教的な事情に懐疑的な様子である。だが別にムスリムであることを批判するほどではない。世俗的なムスリムといったところだろうか。

主人公はどちらといえば芸術至上主義者であるらしい。これはタルコフスキーと似ている。同じ戦略だと言っても良い。芸術によって近代(学校の宿題!)と前近代(ぜんぜん話を聞かない老人)の両方を乗り越えようとしている。たぶん無意識にやっているのではないか。

映画そのものの話に戻ろう。まず高速道路?の料金所から映画は始まる。これが実に良い。映画と現実の境界という感じがするし、パターン化された作業の中に主人公の車が異物として入り込む構図だ。この車もまた実に良い。途中で人を乗せるのかどうか、荷物を上に載せるのか、ここに駐車してよいのか、サスペンス的な魅力を感じる。あえて車の前方は写さない。

途中の壊れた家屋が集積する集落も良い。前作にあったドアを開くのかどうかという緊張感はなくなり、開放的な空間となったことでいつどこで誰と遭遇するか分からず、ふいに予想もしなかった会話が始まったりして実に良い。息子と父はお互いにどこにいるのか分からないが大声を出せば分かるという構図だ。ここで息子は冒険的な動きをしながら声によって守られている、声によって監視されているという面白い状態になる。

キャンプの人たちがサッカーを見るために集合する場面は実にすばらしい。ワールドカップは6月に開かれるのだから今は6月だと分かる。そのわりに厚着だ。高地だから寒いのだ。この場面は一種の災害ユートピアのようなものだが、アンテナによってみなが繋がるというのはここでは非常に開放的でポジティブな印象を与える。どんなにつらいときでも楽しいことはあるし楽しむことはとても大事だ。筆者はサッカーファンなのでこの場面は本当に感動した。

ラスト付近になってようやく前方を映すカットが増える。そしてはるか前方から車を映す長いロングショットで終幕する。このショットの車の愉快な動き!通行人のリアクションも愉快で、この愉快さこそが求めていたものだと気付かされる。道は続いている、あの少年も生きている、ああなんと愉快なのだろう。災害映画のラストに相応しい肯定感。素晴らしい。

とことでおそらく映画の舞台はギーラーン地方(イラン北部)だと思うのだが、この地方は比較的多雨だったはずだ。映画を観ていて他の地方がどんな景色なのかもっと見たいという気持ちになった。南部や東部、中央部はどんな景色なのだろう。なかなか行くのが難しい国なのでこういう映画は本当に大歓迎だ。

(評価:★5)

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