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[コメント] 学校(1993/日)

「学ぶことの大事さ」はあるけど、「学校で学ぶということ」はどこにもない。 2009年8月4日DVD鑑賞
ねこすけ

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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劇中でも言及されるが、夜間中学においては教師以上に生徒の側が何かを抱えている場合が多いのだろうと思う。だから、「学校」という箱モノで繰り広げられる物語をつらつらと追ったところで、「色んな人がいる学校」くらいの描写にしかならないのだろう。その意味では、作文を媒介にした(あるいは、病死したクラスメートの思い出を媒介にした)「回想」という形式を取ったことは、物語を作る上では必然的だったのだろうとは思う。

けれど、結局そこから「学校」という箱モノへの視点が伸びていないような印象を覚える。ここに描かれているのは「学ぶ」ということで、「学校」が無い。おまけに、最終的に「幸福になるために学ぶ」なんて言う単純化された説教が出てきてしまうのだから性質が悪い。後味は「良い映画」だとは思うけど、やっぱり性質が悪い。そんな単純なもんじゃないだろ。焼肉屋のオバチャンが、その前に「じゃあ、勉強して自分が幸せじゃないって気付いて首くくれっていうのか!」というけど、そっちの方が重要な問いを含んでいると思う。――のに、「幸せとは何か」という問いを「学習」ということにイコールでくっつけちゃう辺りのあざとさは(一定の共感はするけど)やっぱり、性質が悪い。そんな単純じゃないだろ。言いたいことはわかるけども。

夜間中学ってのは、そういう一筋縄じゃ行かないほど複雑な人たちが集まってるところなのだから、そんな単純な結論で問題が消えてしまうなんて・・・そんなもんなの? それとも、そういう単純な結論でみんな納得してしまうからこそ、「いろんな人が集まってるけど、やっぱ学校にいる中でみんな歩み寄れるよね」みたいなことだというのか。よくわからん。

あそこの部分が、中途半端な説教臭さに落ちて「学習する」と「幸せ」がイコールで結びつけられた瞬間、「学校」という枠が吹っ飛んで消えてしまったような気がする。なぜ、そうまでして、“夜間中学”なのか。それに対して「学ぶためにちょうど良い施設があるから」という返答をするだけならば、あんまりにも味気ない。

「学びたい→学校」というのでは、「学校=学ぶところ」でしかない。でも、そういうものじゃないと思う。少なくとも、字を書くとか、そういう大事なことのもう片方に、まだ何かあるはずだ。

あと、西田敏行の教師像は、「良い人」だけど、あんまり教師っぽくはないですね。そこがまた、この映画を「良い映画」にすると同時に、「説教臭い映画」にしてるのだと思う。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)寒山拾得[*] ぽんしゅう[*]

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