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[コメント] デュエリスト 決闘者(1977/英)

相手を探し出し、抹殺すること。この点、続く『エイリアン』や『ブレードランナー』と同一主題の作品とも言える。プロットは単純極まるが、無駄なくきびきびした時間処理や、絵画のように美麗な画面、刃の立てる重い音など、全篇に満ちた緊迫感が堪らない。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
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最初のカットは、アヒルの群れを連れて小路をやってくる娘。そんな長閑な情景から始まる。路の先で兵士と遭遇し、遠くで行なわれている闘いを興味本位に覗いていた彼女だが、自分が目の当たりにしているのが真剣な殺し合いであることに気づくと、途端に恐怖を顕わにして逃げ出してしまう。フェロー(ハーベイ・カイテル)の逆恨みを受けたアルマン(キース・キャラダイン)が、彼と二度目の決闘を行なうシーンも、遠景ショットによって、何やら遠くの方で決闘なるものを行なっている者たちがいるようだ、といった調子で始まる。剣を闘わせる直前、一度アルマンはくしゃみをしてストップをかけ、その決闘で傷を負った後のシーンでも、傷が開くのを避けるためにくしゃみを我慢しようとしてかなわず、痛みを堪えることになる。

そうした、アヒルやらくしゃみやらも当然のように存在する世界の中に、決闘という行為もまた存在するということ。三度目に剣を交わすシーンでは、両者は狭い空間で血塗れになって必死で闘っており、周囲が何も見えていないような様子だが、二人の闘いに巻き込まれて窓から落っことされてしまう見物人だとか、遂に体ごと絡み合い応酬し合う二人が、他の男たちによって止められる結末など、決闘は、二人の間で自己完結的に行なわれて終わる行為ではない。次の決闘、馬上の対決でフェローに傷を負わせ、続行不可能にしたアルマンは、喜びのあまりそのまま駆け出して、積まれた藁を跳び越えていく。強制的に、フェローと一対一で向き合わされる状況からの脱出が、やはり決闘という行為の周辺の世界へと駆け出す場面によって描かれるのだ。

ロシア遠征のシーンでは、「向こうにコサックがいるぞ」というフェローの呼びかけに、アルマンだけが応え、二人きりで雪原を行くことになるのだが、ここではさすがにフェローも決闘をもちかけはしない。二人きりでいながら、決闘は避けていられるということ。アルマンが一人志願したのは、この自由を味わうためだったのではないか。単にフェローに屈折した友情を抱いていたというような、単純な話ではないだろう。ポナパルト派としてフェローが処分されかけた際も、なぜかアルマンは密かにフェローを助けるが、フェローを抹殺して事足れりとすること自体が、フェローの偏執的な「決闘」の論理の土俵に乗ることだと感じたからかもしれないのだ。

最後の対決は、アルマンがロシア遠征の際にフェローに告げたとおり、銃によるもの。この決闘が他と違うのは、見届け人たちから二人が離れ、森の中に二人だけにされた状態で行なわれること。フェローに止めを刺すことの出来る状況で、アルマンはそれを為さず、「お前は死んだことにする。これまで散々お前に付き合ってやったのだ、これからは私に従え」と命じる。長い間、決闘への偏執の権化・フェローに追われ続けたアルマンは、生死を決するという意味での「決闘」という行為そのものを否定してみせることで、フェローに、決闘への拒絶としてのアルマンの存在を背負って生きていくように強いたわけだ。

そうして、アルマンは、決闘などという行為を行なってきたことなど微塵も妻に対して表さず、彼女に、義父から昨夜貰った果実を見せて微笑み合う。片や、フェローは、独り丘の上に立ち、遠方を見つめている。彼はもう、自らが執拗に追求してきた「決闘」なる行為を取り囲んでいた「外」の世界を、ただ見つめることしかできないのだ。

(評価:★3)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)赤い戦車 ジェリー[*]

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