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[コメント] ドッグヴィル(2003/デンマーク=スウェーデン=仏=ノルウェー=オランダ=フィンランド=独=伊=日=米)

監督の意図かどうかわからないけど、私にとってこの演出方法は、常に舞台装置であることを意識させてくれ、RPGでもやっているようにわりと冷静に観られた。監督、次は日本の「嫁いびり」でも撮ってみますか?
おーい粗茶

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
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ヒロインも村の人たちも、ひとことで言うとみな「役者」に見える。セットのせいだけではない。かれらが血の通ったキャラクターではなく、あまりにも「設定」という面が突出してしまっているからだと思う。この作品は監督の思考実験なので、キャラが一人歩きすることなく、黙って役割を演じてくれる必要があるのだ。

もともとフィクションの登場人物たちは、物語の方向にあわせて創造され、そういった意味では決してリアルであることはない。テーマと関係なくへんな性癖を持っていたり、人には親切なくせに動物はいじめるなど、そういう多面性をテーマにしているのでなければ、不要に観客を混乱させるような多面性を持つことはない。あらかじめ「意図」が割り当てられる。それでも役者は、「場」を与えられると、そこを根城に表情やら仕草などを通じて監督の意図とは違うところにキャラクターの独自性を獲得してしまうように思う。ふつうなら、それが監督なんかも自分の想像を超えたものを発見できて「面白い」とか思ったりする。しかし、本作のセットの「圧力」は、そういう自由さを役者から無言のうちに相当奪っているように思った。だから私には、彼らが常よりも「役割りを与えられた人=役者」に見えたのだと思う。

少人数の集落でありながら、共同体のしばりを感じず、むしろ多様な価値観を有している村人たちは、まちがいなく都市生活者で構成されている社会のモデルである。そこに「今すぐ必要ではないが、それがあると便利なもの=消費社会のサービス」がどう作用していくのか?を問うところからして、閉鎖的なコミュニティと外の人の話ではない。逆に、独立記念日を境に村人が一斉にヒロインの嗜虐に転じる場面は、因習に縛られた共同体ならありえても、多様な価値観を持つ社会では起こりえないはずだ。監督は物語の進行のために都合よくドッグヴィルを使い分けているのだと思う。「こんな村ほんとにあるの?」という疑いを抱かせないためには、こういうセットである必要があったのだ。

では、実験モデルのようなコミュニティを作って結局何を言いたかったのだろう? 人間のどうしようもなさ。どうしようもない人間はどうしようもない。そしてどうしようもない人間をああして裁いてしまう(たかが月明かりの加減で「悪人に見えた」とかいうようなちょっとした感覚の所在で判断してしまうという)どうしようもなさ。そんなところだろうか?

(評価:★3)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)けにろん[*] 緑雨[*]

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