[コメント] ドッグヴィル(2003/デンマーク=スウェーデン=仏=ノルウェー=オランダ=フィンランド=独=伊=日=米)
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プライベートも秘密も感じさせない開け放たれたセット。全てを観ている我々鑑賞者にとっては、グレースが被害者であることは疑いようのない事実。それを認めないのはただドックヴィレの住人のみ。そこに裏はない。サスペンス作品としては、大胆な試みと言える。しかし、裏がない状況説明の序盤はやはり面白くない。
主点をトムからグレースに変えた中盤あたりから、グレースの寛容と住人の図に乗った描写が目立つようになる。トムの提唱する「良きアメリカ」は幻である、とトム自身が立証してしまった・・・、ラストに至るまで本作はそんな「喜劇」なのかな?との感すらした。セットや小道具もそんな喜劇を演出しているようでもある。だた喜劇としてみるにも面白くない。
ラストの父の登場で、本作が「許し」をテーマにした作品だとわかる。父に彼の許さない姿勢は傲慢だと言ったグレースに対し、父は常に人を許すグレースのほうが傲慢だという。
「許し」について・・・、キリスト教においては人の罪を「許す」ことが出来るのは”神”のみである。本来そのはずである。ドストエフスキーは遺作「カラマーゾフの兄弟」の「大審問官」のくだりでキリスト本人を登場させ、その言葉としておおよそ以下のように断じ、キリスト教の矛盾を鋭く突いている。
私(キリスト)は自らを犠牲にすることで、全ての人の罪を償い、そこから自由にしたのだ。にもかかわらず、あなた(大審問官;キリスト教の権威)は、私の名をかたり、人の罪を許す特権を行使することで、人の自由を奪い続けている・・・
(グレースに匿う代償を求める住人に対し、)無償なまでの奉仕と許しが転じて、住人の自由、命、未来を奪うに至ったグレースと、その場においても状況を理解できない凡庸なトムの描写は、まさに「カラマーゾフの兄弟」の「大審問官」と「民衆」の描写といえ、本作の説得力とサスペンスを最後の最後で高めたといえる。このラストに私は満足した。
壁(秘密)のない本作において、「カーテン」は先の見通せないツールとして使われていた。グレースがマッケイの部屋の「カーテン」を開けることで、ドッグウィルと外界を空間的に同一視し、そこに属していったように、彼女が父の車の「カーテン」を開けたのは、過去(父親のマフィアの世界)と現在(ドッグヴィレ)、そして未来を時間的に同一視したことを意味しているようである。すなわち、「カーテン」はどう足掻いても其処から逃れられない、と彼女が悟ったことを演出しているのだろう。
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