[コメント] CASSHERN(2004/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
このコメント、曲解があるかも知れません。怒りで客観的に観れていないのは自覚しているつもりです。
ただそうであっても、僕の価値観の中でこの映画が怒るべき対象であることは永劫変わりそうもないので、偏った観かたである事を重々承知で敢えてそのままコメントを書きます。
好きな人、ごめんなさい。
---------------------------
この映画、確かに見るべきところはあったかもしれない。ごつい機械好きだし、メカのギミックには心躍るものがあったのも事実。そういったモノを生かすために過度にケバケバしい画面設計にしているのだとしたら、あのキラキラした映像にも納得がいく。
また、アクションで「おお!?」と思わせるシーンがあったのも事実。殴り合いには辟易したけど。
でも、終盤の「僕らは許しあうべきだった」という、あの台詞でこの映画は僕にとって憎むべきものになった。
少なくともそれは、恋人を殺した父親を、刹那的な怒りに任せて殺してしまった者が言うべき台詞ではない。
信じあうこと、許しあうことと言うのは、本来痛みを伴うものだ。決してその行為の内実は甘くも優しくもない。
他者と言うのは本質的に「自分とは異質なもの」である。誰かを信じるという行為は、自分の中の何か大切なもの、価値観や時には命といったモノをそういった「異質なもの」に託すということでもある。誰かを信じると言うことはそういった価値観や命を賭け札に、自己の責任において自らを他者に託す行為である。 その責任もなく相手を信じると言うのは、依存と同様の独善的な思考停止にすぎない。
許しあうことも同様だ。かつて相容れなかった者同士が許しあうには、互いに譲れなかった一線を突き崩すことがどうしても必要になってくる。以前に互いが相容れなかったからこそ、そこには筆舌に尽くしがたい苦痛が伴う筈だ。そして他者を許しあう行為は、その痛みよりも他者とともにある事を選択したが故の気高い英断でもあるはずだ。 その一線を突き崩す覚悟もなくナアナアで手を取り合ったとしたら、それは単なる欺瞞に過ぎない。
さて、この映画の主人公はどうだ?
主人公が真っ先に「許しあうべきだった」相手は先ず何よりも長年相克を続けていた父親だった筈ではないのか?
それを殺して「許しあうべきだ」も糞もないだろう。
もう自分は傷つく心配がないから、もう痛みを味わわなく済むから、そんな無責任なことがほざけるんじゃないのか?
父親に殺されたヒロインが生き返って、形だけ見れば主人公にとって都合のいい状況になっているので余計にそう思えてしまう。
こうなればもう悪い方向にしか転がらない。長々と見せ付けられた悲劇めいたシーンも単なる主人公の自己憐憫にしか見えなくなってしまった。
僕の好きな映画の一つに『ホームアローン』がある。
あの映画で重要なのは、棄てたにしろ否定したにしろあるいは何か避けがたい事情があったにせよ、劇中で家族を失った者は皆ことごとく孤独を抱えていると言うことだ。極端で説教臭い表現だが、僕はそこで描かれているところのものはある意味真理だと思う。
何せ家族というのは須らく人にとって血という絆で繋がれた、もっとも近しい他者なのである。それとすら関係を築けない者にどうして他の、もっと遠い他者と共に歩む道が開けるだろうか?
「許しあうべきだった」?
反戦結構。僕だって戦争は嫌いだ。人の命を無闇に軽んじるような価値観は聞いただけで反吐が出る。
だけど自分のケツも拭けない奴にそんな大口叩かれるようないわれはない。
そんな台詞は親父も生き返らせて家族会議開いてから言えよ。いやマジで。
そして更に言語道断なのはラストシーン。ところどころで「イデオン」とか言われているあのシーンである。
あそこ、僕には「戦争で死んだ者達がそういった彼の意思に従って全世界が肯定している」という演出に見えた。
もう一度言わせてもらう。ふざけんな。
(評価:
)投票
このコメントを気に入った人達 (2 人) | [*] [*] |
コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。