[コメント] わらの犬(1971/米)
この冒頭からズームの利用が目立つ。ホフマンの妻エイミー−スーザン・ジョージのブラレス姿も目を引く。彼女がどういう役割かが推測できる。エイミーの幼馴染のチャーリー−デル・ヘニーが見る。大きなネズミ捕り機はクライマックスで使われるのだろうとこれも予想する。また、この冒頭で、パブの場面を挿入し、チャーリーのオジキのトム−ピーター・ヴォーンを中心に主要人物を見せている。
前半は、家の修理人(雇い人)のスカット−ケン・ハッチソンらを使ってペキンパーらしい不穏な空気を上手く醸成するが、主人公の2人、ホフマンとジョージの性格・志向性の違いを示す描写によっても観客の不安感をかきたてるのだ。ただし、一部、妻のジョージのレスポンスには、唐突過ぎるというか、性急過ぎる描写があり違和感もある(例えば唐突に「私でなく、黒板を奥さんにすれば」などと云い出す繋ぎ)。
プロット展開の転機は、ホフマン−デヴィッドが、チャーリーやスカットから鳥撃ちの猟に誘われて、原野に置いてけぼりにされるシーン周りだ。凌辱されるジョージ−エイミーとのクロスカッティング。このシーンの高速度撮影の使い方は、終盤の男たちとの対決シーンにおけるそれよりも強烈に感じる。この後、エイミーが、デヴィッドに事の次第を伝えたかどうかが明確に描かれない、描かないという選択は、観客にモヤモヤを残すことをワザと狙っているのだろう。
そして終盤のアクションシーンの畳みかけには、勿論大いに昂奮させられるのだが、こゝでの当初のモチベーションである、怪我をしたヘンリー−デヴィッド・ワーナーの右顧左眄な態度(というか描かれ方)や、ホフマンの意志の変化の複雑さが、シチュエーションをとても面白くしていると云えるだろう。あるいは、ホフマンとの対決をそっちのけにして、チャーリーとスカットがエイミーをめぐって争い始めるというようなカオスの現出のさせ方が実に周到な作劇だと思う。
しかし、私が思う本作の白眉は、教会での催し物(親睦会)のモブシーンだ。沢山の子供たちが騒ぎ、トム、チャーリー、スカットら悪役たちが悪ふざけをする。牧師のコリン・ウェランドが余興でやるマジックと、女性信徒によるリゴレットの歌唱。仰角構図と屋内望遠ショット。そこに挿入されるジョージ−エイミーの短いフラッシュバック。そして霧の造型。このヒリヒリするような濃密な空気の醸成こそペキンパーの特質だと思うのだ。
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