[コメント] ブラックレイン(1989/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
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まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
偽刑事に騙されて佐藤(松田優作)を逃がしてしまったニック(マイケル・ダグラス)とチャーリー(アンディ・ガルシア)が乗るトラックの、デコトラ風の電飾。バイクに乗った佐藤がチャーリーの首を切るシーンでの、地面に触れて火花を散らす刃先。傷心のニックが佇む、雨に濡れた心斎橋に反射するネオンの光。ニックによる工場潜入シーンで飛散する火花。極彩色の光の装飾。冒頭のアメリカ・シークェンスとの違いは歴然としている。
キリンプラザがクラブという設定にされていることも含め、大阪は飽く迄もイメージの素材であり、光とカッティングによって映画的に仮構された都市としての大阪が舞台なのだ。だからこそ、夜の都会に白く輝く直方体、キリンプラザも、現実の光景でありながら、現実を超えた妖しい存在感を示す。これが映画的フィクションの面白さだろう。
無人となった佐藤のアジトで、ニックが手がかりを求めて暴れまくるシーンでの、換気扇の向こうから射し込む光線や、佐藤と菅井(若山富三郎)による手打ち式での、窓から射し込む光線は、いかにもリドリー・スコットらしい光の構成。
主人公のニックは、アメリカ映画の主人公としては、特筆すべき個性は無い。アメリカ・シークェンスが些か凡庸に映じるのは、そのせいでもある。そのニックが日本と関わることで、彼の血の気の多さやダーティさがより際立ち、強烈な存在感を与える。
ニックの宥め役として穏やかな性格とユーモアを示すチャーリーと、固い性格の松本警部補(高倉健)が一緒に酒を飲むシーンでは、ネクタイを与えられたり、無理やりデュエットに参加させられたりする様でさえも渋い高倉健という人は、やはり貴重な存在だと感じさせられる。この二人がニック抜きで交流するシーンがあるからこそ、チャーリーの死後、松本が彼の遺志を継ぐようにニックの相棒となるプロットにも、熱いものが宿る。
チャーリーがナイーヴに信じ込んでいたニックの横領疑惑に松本が鋭く突っ込んでいくシーンも、チャーリーが相棒として果たし得なかった、相手に正道を説く役割を代わりに務めたのだとも思える。だが、単身で手打ち式に潜入したニックを援護しに松本が登場するシーンは、ニックの傍にいた敵を倒すという形での登場でありながらも、それ自体がアメリカ映画的論理に忠実に過ぎる印象がある。このシーンの健さんは、むしろ佐藤よりもアメリカナイズされているかも知れない。
高倉健が、集団主義や礼節、規律を重んじる日本人像を演じているのに対し、「お前たち(=アメリカ人)が佐藤のような男を生んだ」と菅井が語る佐藤は、その手下が革ジャンを着た暴走族風であることなどからも多分にアメリカナイズされて見える面はあるが、松田優作の東洋的な扁平顔に宿る狂気は、歌舞伎の見得のように誇張されたアジア的凶暴さを強烈に漂わせている。白人的ではない、白刃的な狂気。
松本のキャラクター性は、参ったな、といった様子で額をコンコンと叩く仕種で端的に示されている。ラストシーンでは、ニックに贈られた品が偽札の原版であったことを知って、この仕種をする。先立つシーンでは、原版は見つからなかったという松本に、「運のいい奴が見つけているさ。然るべき所へ持っていけば一生安泰だ」と、またも横領刑事としての開き直りとも思える台詞を吐くニック。その時の松本の微妙な表情。この疑惑の雲が晴らされるラストは、この映画が、ニックの再生の物語という軸に貫かれていたことを明らかにする。勿論そのこと自体が非凡なわけではないが、「日本」という強烈な齟齬の洗礼を経ての結末であるが故の感動がある。
ジョイス(ケイト・キャプショー)が「ガイジン」としての疎外感をニックに語る台詞があるように、二人の関係は、単にジョイスが英語を話せることに藁にも縋るように頼るニック、という事情に留まらないものがある。チャーリーが惨殺された後、一人佇むニックに浮浪者が声をかける。「わし、腹ペコペコやねん」。その浮浪者に「コレデぱんデモカッテ」と小銭を渡すジョイスの行為が、妙に心に沁みる。チャーリーが、奪われたコートを追って刺客の許に誘い込まれたのは、コートにパスポートが入っていたからだ。ニックの背に漂う、異国であるが故の挫折と孤独。ジョイスが、飢えた日本人に、パンを買う程度の小銭は恵んでやれるという事実には、異国でどうにか暮らしてきた彼女の、慎ましい矜持が垣間見えた気がした。
全篇通して、どこか戯画的な日本像だと感じる面が無いと言えば嘘になるが、歪とまでは言い切れない。アメリカ映画という枠内に分かり易く「日本」を入れ込む必要上、多少は致し方ない。例えば、書店の洋書コーナーに置かれてある日本紹介本を覗いてみると、特に歪曲や曲解が為されているわけではなくとも、いかにも日本的と向こうの人が感じるであろう素材ばかりが並んでいることに、違和感を覚えることがある。だが、外国人が、自分の国とは違う部分に目を引かれてそれを素材として集めるのは当然といえば当然なのだ。むしろ、映画的に濃縮され仮構された日本を、愉しんで味わいたい。
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