[コメント] 東京画(1985/独)
『ベルリン天使の詩』等で知られる、というか、一般的にはこれ以外知られていないような気もするヴェンダース監督。彼が1983年に、東京でのドイツ映画祭の為に来日し、敬愛する小津安二郎監督の映画で観た風景を探して、八十年代の東京の街を彷徨うドキュメント。小津さん一筋に生きたカメラマン、厚田雄春さんや、名優、笠智衆さんへのインタビューもあり、資料としては貴重。
が、しかし・・・。東京に幽霊が彷徨っている、小津ファンという幽霊が――と呟きたくなるような映画ですよ、これ。たまたま映画祭に呼ばれてやってきた外国人の監督が、すっかり現代化された東京を小津作品と見比べて、あれが無い、これも無い、と、嘆息の連続。あのね、坂口安吾の≪日本文化私観≫の言葉を借りれば、「京都の寺や奈良の仏像が全滅しても困らないが、電車が動かなくては困るのだ。」これはまぁ、高度成長期どころか、まだ終戦前であった時代状況も手伝っての極論だとしても、じかにその土地で生活する人間の、嘘偽らざる本音の一端ではある訳です。はっきり言わせてもらえば、ヴェンダースは小津さんの墓石にたった一文字刻まれた“無”という言葉の東洋的な意味合いを、全然理解してないんじゃないですかね。いかにもドイツ人らしく、ニヒルな心境になっちゃったみたいですけど。
食品サンプル工場の作業風景や、ゴルフ場の練習風景を延々と撮り続けるヴェンダース。社会科見学じゃないんだから。どうも、本物と見分けのつかない食品サンプルや、完璧なスイングを求めて同じ動作を繰り返すオッサンたちの姿に、内実よりも表面の形式にこだわる日本人の特性を見出したいみたいだけど、なんだかロラン・バルトの≪記号の帝国≫のテーゼをそのまんま当てはめてみたような観念性を感じてしまう(この本は既に70年に出ている)。「ホールに球を入れるという本来の目的は忘れられ、フォームの完璧さだけが追い求められている」って、あのさ、グリーンにのせる為にはまず球を遠くに飛ばさなきゃならん事くらい分かるでしょう。パターの練習ばっかりしてても、「本来の目的」に達する訳じゃない事くらい分からんのか?要は、最初にヴェンダースの中に‘日本のイメージ’が固まっていて、現実の光景をその鋳型にはめ込んでいくという姿勢で一貫している。ヴェンダース映画のサンプルと化した、模造の日本。
先述のバルトの本に関して言うと、まず本の最初に、日本というよりは一つの架空の国についての言説だと断り書きを入れていて、それは逃げといえば逃げなんだろうけど、ヴェンダースの押し付けがましさよりはずっと良い。この映画中に出てくるクリス・マルケルが日本で撮った『サン・ソレイユ』にも、ヴェンダース流のヘンな思い入れなどは無く、バルトがエクリチュールについての本を書いたように、純粋にイマージュの為の映画を撮っている。この二人のフランス人に比べて、ヴェンダースはいかにもドイツ人的というか、ポール・ヴァレリーの言う所の‘方法的制覇’で日本を作品化してしまおうという傲慢さが鼻につく。
小津さんに対する敬愛の念というのはよく伝わってくるんだけど、却ってその想いのネガティヴな面として、日本への傲慢さが表れた観がある。まぁでも確かに、アメリカナイズされた若者が、ロック音楽に踊り狂う姿は、今見ると馬鹿みたい。「黄色い猿が、リーゼントかよ…」と呟きたくなる、酷い光景。本人たちが今見たら、恥ずかしくて穴に入っちゃいそう。いや、むしろ入ってほしい。その一方、道端で遊ぶ子どもを撮っている所を、丁寧な会釈をして通り過ぎるお婆さんの所作は、そのさり気なさも含めて、何とも美しい。なんだかんだ言っても結局は、‘在りし日の日本’に比べてどんどん醜くなっていくバブリーな日本の姿に暗澹たる気持ちにさせられるのが、口惜しい。過去のイメージに固執してウジウジする男というのは、他のヴェンダース作品にも見られる傾向だけど、そのウジウジ具合がかなり嫌な感じで表出。尚且つ日本人は多少なりともそのウジウジした姿勢に感染させられてしまう筈。何とも嫌なものを見せられた思いに襲われる映画ですけど、でも、それが故に必見かも。
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