[コメント] 讃歌(1972/日)
谷崎マゾヒズムを、新藤兼人の純朴なアマチュアリズムで翻案した、実におもしろい映画。徒歩のスピードと関西弁のゆったりしたリズムで奏でられる、盲目白塗りのヒロイン渡辺督子と、それを凝視する河原崎次郎の交流は、どこまでも乾いたタッチで描かれる。
**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。
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実話を装った語り口に加え、芸道モノという題材のリアリスティックな描写が圧巻。特に開始30分あたりでの延々続く稽古のエピソードは、没入する師弟の間に割って入る者のない特異な空間にまで変化する。そこに存在した、虐め虐められるという倒錯した感情は、渡辺・河原崎のドラマではなく、乙羽・新藤のインタビューシーンで解説される。白塗り婆の乙羽から話を聞きだそうとする平身低頭の新藤は本筋のパロディであり、彼らの私生活すら想像させる笑いのポイントだろう。
甲斐甲斐しく渡辺の世話をする河原崎は、仏に仕えるような、と形容されるが、食事、風呂、排泄物の世話にいたるその生活の営みは人間的だ。寝具の上の行為はアルモドバルの『トーク・トゥ・ハー』を連想させる。
懐妊という極みを経て、原田大二郎の登場以降は、プールのシーンや、帰り道での座り小便といったユーモアも加味される。尿意の我慢は趣向としてのマゾヒズムの暗喩で、渡辺が単なる我侭なエゴイストではなく、厳格なキャラクターとして描かれているからこその、一種の天然ボケ的な愛嬌を感じた。
終盤は、加齢とともに軟化する渡辺を軌道修正する河原崎の自虐行為が文学的であり、抑圧から解かれた半裸の渡辺は、徒然草の「糸竹に妙なるは幽玄の道」の高尚さと、生身の女の通俗性を併せ持っている。舞台演劇的な野暮ったい装置と、牧歌的な林光の音楽が、なんともいえない情感を醸し出す。
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