[コメント] 北の零年(2004/日)
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吉永小百合の出演111本目の映画(何故、この中途半端な数字が盛んに宣伝に使われるのかよく分からんが)を押し付けられた物語が書けない脚本家那須真知子と、忙しくてオバさん女優になどかっまていられない行定勲監督は、さぞや困ったことだろう。どう考えても、この大河ドラマみたいな企画は古臭い。
そこで考え出された作戦は、古臭さの象徴吉永小百合の徹底排除である。現代ではほとんど説得力を持たない志乃(吉永小百合)のお約束パートは最小限(それでも、かなり鬱陶しいのだが)に押さえ込まれ、むしろ子を亡くした絶望感からやがて夫を裏切る加代(石田ゆり子)の、生身の女としての生きざまに心情的力点を置く。そして、この女たちが翻弄される原因である男社会の理不尽さと、その中を右往左往する男たちのぶざまさこそが那須真知子が書きたかったテーマなのだ。
■第二陣の難破を告げる手紙に、ありもしない殿の言葉を付け加える組織防衛的欺瞞。■一人が髷を切れば、前言を翻して雪崩をうったようにそれにならう主体性のなさ、あるいは同調圧力。■ここは俺たちの畑だ、俺たちは政府の米などもらわぬという自分よがりな縄張り意識。■払った金に対して味噌の量が少ないと、商人の蔵に忍び込み平気で刀を抜くいつまでも抜けない身分意識。■相手の弱みにつけ込んで揉み手しながら金と女をくすね、成り上がろうとする手段を選ばぬ出世欲。
小松原(渡辺謙)の札幌へ出て以降の身勝手な行動は言わずもがなである。男社会の身勝手な行動原理こそが稲田藩の女たちに苦労を強いた元凶であり、今も根強く日本社会にはびこる悪しき風潮なのよ、と那須真知子さんは言いたかったのです。
この脚本を得て行定勲監督は「これなら、俺にも撮れるかも」。きっと、そうつぶやいたことでしょう。もう吉永小百合などというオバさんを、真剣に撮らなくていいんだ。ここに書いてある通りお決まりのシーンで、お決まりの台詞だけ撮ればいいんだ。辻褄なんか合わなくてもいい。それで小百合ファンはOK、OK。かくして行定監督は、有り余る(かどうかは知らないが)金と時間を使って、雄大な自然の中の矮小な男たちのドラマを撮ることに自らの才能を余すところなく集中させたのであります。
いやいや、期待に反してなかなかどうして“おもしろい”映画でした。
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