[コメント] いとはん物語(1957/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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物干し場を改造した菊の栽培場の欄干から鶴田浩二の置き去りにした包帯が垂れて夕空の風になびく。京マチ子は「庭の千草」を唄う。彼女が筆の練習に鶴田の名前「友七」と何度も書いた半紙を京の母の東山千栄子は見つけ、その半紙は風に舞って畳のうえを滑る。お八重の小野道子が鶴田に何か云おうとすると電灯がともる(大正時代は夜になると電気がきた)。どれも素晴らしいショットだった。アグファカラーに夕焼けが映えている。
美人女優の醜女の造形は凸ちゃんの『放浪記』や藤村志保の『なみだ川』など時々あるが、ここまで徹底したのは珍しいだろう。出っ歯のうえに鼻の孔を真ん丸にして縁取りもつけていただろうか。序盤のお稲荷さんの「お供物備え」で顔見せをじらす演出は相当嫌らしいし、当然見慣れれば大したことがなくなるのを見越して彼女を余り映さないのも嫌らしい気がする。おかめの面つけたチンピラ連が「もしもし亀よ」をオカメよと替え歌にして京に纏わりつくというイジメは精神年齢が相当低そうだ。
東山の母の京への、器量悪く産んで悪かったという詫びは、母娘とはこういうことも語り合うものなのかとシンミリさせられる。しかし鶴田の兄の加東大介を丹波から呼んで、京との仲を「纏まるようにしてやってください」と頼むとき、東山の持つ権力関係は発動されてしまうのだった。
京の新婚旅行の夢想のなかで、京は出っ歯を外していつもの美人に戻る。この演出は『オアシス』を想起させる。富士五湖の湖畔、女学生たちはThere’s no Place Like Homeと映画で唄う。末の妹の女学生は大正期らしく自転車に乗り、英語の練習をする。本作は大正期らしいデモクラシーの雰囲気で溢れている。
後半の三角関係の緊迫感のなか、浦辺粂子が浮上してくるのが素晴らしい。東山千恵子の片手落ちな善意に対抗するには、もうひとりの老婆の善意が必要だった。
やっと逢えた鶴田と小野道子。「俺の気持ちは決まっている」という鶴田が男前。小野は云う。私は愛された思い出で生きていける。京は貴方なしでは生きていけない。何という科白であることか(北条秀司の原作は婦人向けなのだろう)。一緒に逃げるかと鶴田が尋ね、小野が首を振り、そうともそんな卑怯なことができるかと鶴田は話をつけに行く。
鏡に乳液ぶっかけた京は想いを収め、いい夢が見られた、ふたりに図らってくれと母に云う。京の横恋慕が主題な訳で、醜女の主題は特に関係はなく、不要だったようにも思う。ただ、恋愛の不条理を際立たせたのは確かだろう。
二枚目の川崎敬三が老けメイクで、雑巾掛けしている女中のお尻触って回る件が衝撃的。これは京マチ子と倍音を響かせるのだという演出の思想があるのだろう。
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