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[コメント] 海を飛ぶ夢(2004/スペイン)

基本的にラモンの考え方には賛成するけど、映画としては描かれていない部分が多い。私なら…だけではなく、それがあなただったなら私は…も描くべきだと思う。
スパルタのキツネ

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







私にはこういったテーマには敏感に反応する傾向があるようです。 以下、本作に感じた事柄をいろいろ記してみました。まとめようとしたつもりが、どんどん長くなってしまいました。興味があれば御一読ください。

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首から下が不随の身でも頭脳はしっかりしているラモンの尊厳死は意味深い。患者の頭脳が正常でなければ、その判断は本人でない第3者に託される。しかし、ラモンははっきりと「死」を意思表示する。死ぬ為には人の手助けが必要。手助けした友人に罪を着せない為にも、合法的な手続きを望む。それを社会はどう捉えるか? ここまでのテーマはよく判る。

教会がラモンの自殺を認めないのは教義上当然であろう。法廷が自殺を認めないのも常識的に考えると法廷は生きる権利を保障する場なのだから当然と思える。 生きる権利と死ぬ権利、宗教上の制約こそあれ、人には自分の命であれば死を選択する自由はあるかもしれない。しかし、公の場で他人の自殺を認めることなど、やはりあり得ないだろう。キリスト教国でない日本でもまず無理だと思う。 

ラモンのスタンスには少し疑問が残る。 当初法廷への出廷を拒む彼の姿は諦め半分かのようで、ラモンは最初から法廷での勝利には望みを託していなかったように思える。ラモンは並行してフリアと心中の約束を交わしながらも、裏で(乾杯のシーンで登場した)友人達とも折衝を続けていたようにも見える。

その彼を裏で支援する友人達の存在。それを実行してくれる彼らの存在こそがラモンの揺るがぬ信念、絶対的な死への自信の根源のはずなのだが、ラモンとの触れ合いで心変わりしたロサ以外に、彼の死に賛成し手助けする友人がまともに登場してこないのは一体どういうことだろうか?

そもそもラモンの死に心から賛成した登場人物など皆無だったのではないだろうか? ラモンの家族はもちろんのこと、尊厳死支援団体のジェネもお別れの電話で思いとどまらせようとしたし、ラモン著の初版本を手にしたフリアも彼との心中に踏み込めず、ロサも彼のために已む無く手を貸していた。 また、ラモンの死を頭ごなしに否定し、家族までも侮辱した司祭がいたが、世論の代表として否定側の人間をそこまで悪代官のように描く必要があるのだろうか? 本作は反対派から中間派まで描き分けることで、狡猾に賛成派の描写、賛成派のジレンマを避けていた。

不自由に耐えられなくなった人が死を望み、自己完結できる話しなら本作の意義はまるでない。また癌などで死にかけている人を安楽死させる話しでもない。 先にも触れたように「人の手を必要とする自殺(広義な他殺)」であることが本作の重要なポイントのはずである。

自分がそう望んだ時、(旧知の)友人が手を貸してくれるかどうか?  友人がそう望んだ時、自分は手を貸すかどうか?

私にとってこれは法廷論争以上に本作の肝だと思う。 ラモンは26年前の友人の「一部」とは交流が続いていると言っていたが、この尊厳死支援のメンバーにあの日ラモンを救った当人が含まれているかどうか、友人同士で口論にならなかったかどうか、口論になった結果が「一部」との付き合いになったということなのか、など映画として重要な要素と思われるものの多くが省かれていた。

更に、ラモンは26年間を経てこの決断に至ったようですが、そこに至った経緯、26年間の意味がよく判らない。26年間の葛藤は、おそらく詩に書き連ねられているのだろうが、甥に宛てた一節以外は判らずじまい。エンドロールでもかまわないので、最低この部分は演出してほしかった。

アレハンドロ・アメナーバルは好きな監督ですが、流石に映像表現は素晴らしく、また家族の描写も良かったが、脚本には前述の通り不満が残った。ちょっと毛色は違うけど、本作のテーマであれば、ラッセ・ハルストレム監督のほうが全く違うバランスの取れた描き方をしただろう。

(評価:★3)

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