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[コメント] サマリア(2004/韓国)

少女が少女に残したものは、大人のけがれ。大人は少女に何を残せば良いのだろうか。苦悩する父親(クァク・チミン)の姿にキム・ギドクの姿がだぶる。そこには、悩み彷徨いながらもほとばしる想いを奔放に表現してきた者が到達した自信と決意が見える。
ぽんしゅう

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







肉体の存在の希薄さと心の優しさが同居し、自らを「バスミルダ」と称する少女チェヨン(ソ・ミンジョン)は、親友とのヨーロッパ旅行という夢を手に入れる手段として、無邪気にも自らの肉体を売るという方法を選ぶほど未熟だった。彼女が肉体と引き換えに手に入れる金銭は、親友との絆の証しであるとともに、大人たちの欲望という社会のけがれそのものである。

チェヨンに去られ「友への罪の意識」と「けがれとしての金」だけが手元に残ったヨジン(クァク・チミン)もまた、自らの肉体を媒介に男たちと接点を持つという行為を選ぶほど無垢で未熟であった。彼女の「贖罪」と「けがれの浄化」という対価を求めない肉体の提供は、自らを癒すための自涜であるとともに、大人たちの無責任な欲望を助長させるだけの無意味な行為でしかない。

この未熟な少女たちの行為を罪として責めることは、誰もできないであろう。ヨジンの父親(イ・オル)が、やり場のない怒りを娘ではなく娘に群がった大人たちへと向けるのは正当である。しかし、エスカレートした怒りが、やがて自殺や殺人という罪を生み出して行くという矛盾。大人(父親)として少女(娘)を守れなかったことへの悔悟と、己の犯した罪の二重の苦悩は痛々しい。しかし、そこから逃げることは許されないのだ。

今という時代は、誰にとっても迷い多き時代であることに違いはない。未熟な子供たちならなお更らのこと。かと言って、大人が全能であろうはずもない。それでも、大人としての責務を放棄することは出来ないのだ。たとえカタチは不器用であろうとも大人には子供を守り導く義務があるのだ。可能なことは、社会の中で生きていくための技術を示唆することぐらいかも知れないのだが。

この作品には、感動ではなく感激した。

・・・〈余談〉・・・

引き合いに出して申し訳ないが、キム・ギドク監督と同世代であるはずの塩田明彦監督が『カナリア』で見せた大人の責務の放棄が改めて腹立たしく情けなくなる。

(評価:★5)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)赤い戦車[*] ペペロンチーノ[*]

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