[コメント] マラソン(2005/韓国)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
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市民ランナーとして感じたことをコメントします。
まず、自閉症のチョウォンについてですが、日本でも障害を抱えた方の参加を積極的に支援している大会はいくつかあります。中でも東京のど真ん中を走る「東京シティロードレース」は有名で、肢体障害者、知的障害者、視覚障害者、臓器移植者の部がありその取り組みは素晴らしいものがあります。
自閉症のランナーには大抵「伴走ランナー」が一緒に走っていまして、私もよくレース途中で2人が襷を握り合いながら走る姿を見かけます。伴走ランナーは相方のペースメーカになるのは当然、めげそうになるランナーを励ます役割も担っています。 このため自分も十分なトレーニングが必要になるのはもちろんのこと、普段からのパートナーシップが重要だと聞いています。伴走ランナーに励まされながら2人でゴールに向かう後ろ姿には、同じランナーとして応援したくもなりますし、自分も頑張らないと! と励みにもなります。
本作のコーチとチョウォンの触れ合いの描写はよかったと思います。特にチョウォンが公園か川原のジョギングコースを走っているところで、コーチが乗り捨てた自転車を気にしながらも「もー、一緒に走っちゃえ」と言わんばかりに、2人で一緒に走るシーンは最高でした。併走って、ものすんごい気持ちがいいんですよね。本作のチョウォンは全ての大会で一人で走ってましたが、私は最後のレースはコーチと一緒に走ってほしかったと思います。
そんなコーチは終盤「自分が伴走してもよいから、チョウォンを走らせてくれ」と母親に頼むのですが、母親は伴走はおろかランニング自体禁じてしまいます。これは母親の病んだ心の演出に必要だったのでしょうが、母親の描写がチョウォンを束縛したのみならず、作品として走ることの素晴らしさまで束縛しているようで残念でした。
また、ゴールで母がチョウォンを迎えますが、本作の母親の描写から考えると、ゴールで待つと言う心境がもうひとつ理解できません。心配のあまり、ゴールよりもずっと手前で待つのではないでしょうか?
あと気になったことは、本作がかなり「記録」を意識していることです。 市民ランナーは単純なピラミッドではなく、一流ランナーをピークにエンジョイランナーまでかなり広い裾野を持った山を形成しているわけでして、本作で取り上げられてたような「記録」を重視したランナーは一般の人が考えるほど多くないと思います。もちろん自分の目指すタイムはあるのですが、私の言う記録とは順位のことと思ってください。 よく、ランナーではない一般の方に、出場した大会の話になると「何番だった?」と聞かれますが、(大きな大会では出場者が4万人にもなるのに)「14367番でした」なんて答えるわけにもいかないし、そもそも順位なんて気にもしないのです。
本作のチョウォンは冒頭の10kmのロードレースでいきなり3位となり、その後フルに挑戦してリタイア、さらにラストのレースではサブ3(3時間切り)、エピローグではトライアスロンまで好記録を残したという。 好記録かリタイア。記録重視は決して悪いとは言いませんが、記録だけでは顕わし得ない大切な要素があるわけでして、本作の描写には素人っぽさを感じてしまいます。
特にチョウォンは本作の最後のレースでサブ3(3時間切り)を達成しますが、サブ3は多くのランナーの憧れるタイムで、常人であれば月間500km以上のトレーニングを要するはずのところを、ほとんど練習しないまま達成できてしまうのは無理があるし、ペースそのものもせいぜいサブ4ぐらいのペースと見えたし、レース途中で座り込んでしまっているからにはあり得ないタイムです。
一言で言うと、チョウォンが走る姿は、スピード感、距離感、臨場感と言ったマラソンの描写に重要なもののほとんどを感じさせない、記録で誤魔化しているといわれてもしょうがない素人演出なのです。
結局のところ、チョウォンその人やマラソンそのものよりも、自閉症の息子を持った母親の苦悩を描いた作品だったのでしょうが、そうであれば、山あり谷あり、雨あり向かい風あり、苦あり楽ありのマラソンがしばしば「地道な継続」や「人生」に例えられるように、母親の人生にこそマラソンを感じさせてほしかった。
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