[コメント] メゾン・ド・ヒミコ(2005/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
オダギリジョーと柴咲コウのラブシーン。オダギリはそっと柴咲を押し倒し、一般の男がそうするように柴咲の上着をはだけて胸に手を伸ばす。しばしキスを重ね、柴咲は自分から靴を外す。「私は逃げない、許す」という静かな決意である。相変わらずオダギリは胸をまさぐり続ける。柴咲は焦れる。そしてオダギリの目を見据え、問う。
「触りたいトコ、ないんでしょ……?」
たったこれだけのシーンの間にふたりの感情は二転三転し、一組の男女は互いが納得せざるを得ない結論を導き出す。
映画における濃密なセックスシーンというのは、ベロベロと舌を吸い合ったりとかそんなことじゃないんだ。今まで私が見たラブシーンのほとんどは、男女がセックスに至るまでを描いていた。おっ始まれば後はヤルだけだった。だが、このシーンが描くのはセックスが始まってからの男女の心の動きだ。こういった類のラブシーンはあまり見たことがなく、とても新鮮に感じた。
ところで。
白状してしまえば私は、いわゆる“生理的に”という如何ともしがたい理由で、ゲイという嗜好を受け付けない。嫌いだとか偏見を持ってるとかいうより、フォビア(恐怖症)に近い。もし迫られれば(誰もこんな不摂生のおっさんに迫らんとは思うが)相手がたとえオダギリジョーのような美しい男だったとしても鼻の下のくぼみの部分なんかを狙って思い切りブン殴ってしまうと思う。
だから、あの中学生が翻意するあたりなんてまったく理解できなかったし、柴咲の言い放った「あんたらホモのエゴが!」という声に痛く賛同もした。
だが、オダギリの「羨ましかったよ、おまえじゃなくて、ホソカワさんが」という言葉を聞き、ふっ、と何かが融解してゆくのを感じた。ああ、ゲイの人たちというのは、どうしようもなく湧き上がる欲望に支配されていて、それは消し去ってしまうことなんて到底できなくて、だから仕方なく、自分の欲望が許す範囲で最善と思える生き方を選択しているのだな、と。つまりは、私たちとまったく同じなのだな、と。そんな風に感じたのだ。
そうだよな。「こないだオレ、柴咲コウとセックスしちゃったよ!」だったら一晩中でも喋れそうだけど、「オレ、ついに田中泯とヤッちゃったよ!」なんて居酒屋じゃ言えないもんな。そーゆうの彼らは、解ってるんだもんな。大変なんだな、ゲイの人も。
人間の心の奥底にはたぶん「愛」というのがあって、それは物心の付く前からあって、自分が生きていく上でどんな経験をしたり話を聞いたりしたって、その奥底の「愛」をコントロールする力なんて、人間にはないのだ。ずっと死ぬまでそれに支配されて生きてゆくのだ。そして、できるなら、自分で死に場所を選んで死んでゆきたいと思っているのだ。そんなこと解ってたつもりだったけど、「ゲイだってそうだ」というとこまで思いが及んでませんでした。ちと、認識を改めます。はい。
親子の再生を描きながら人間の欲望のアンコントローラブルな性質をも白日にさらし、それを抱擁してさえ見せるとは。犬童一心って監督はやっぱ並大抵の人ではないと思いました。
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