[コメント] 生きる(1952/日)
志村喬の顔は鬼気迫るものに見える。だが、おのれを革命する心というものは、そのまま鬼となる孤独な心なのだ、と教えられる。
**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。
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生き甲斐を探して町を徘徊する志村の顔は狂気を孕んでいる。必死になって遊戯に耽るのは、ほんとうにそれを楽しんでいないからだ。そうしている時の彼は鬼に憑かれている。
だが、望みを無事成し遂げることのできた志村の表情の柔和さはどうだろう。それがエゴイスティックな動機からであっても、ブランコの上で歌う彼は赤子のような表情に戻っている。短い時間だけでも、人として生きられた実感が彼を救っているのだ。
彼の死後、部下たちはてんでに彼の仕事ぶりを肴に酒を呑んでいる。その中にはけなされた志村を擁護するように発言する者もいる。だが実際に彼の仕事を引き継ぐ者は独りもおるまい。志村が仕事人間と化したのはあくまで彼自身のためだ。部下たちを責めることはできない。
あらゆる人生のなかで彼の人生を選んだのは、志村自身なのだ。
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