[コメント] まあだだよ(1993/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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この、ちょっと知的な落語めいた雰囲気は嫌いではない。多くの場面が、座って話をしている情景で占められているが、先生の、頓知の利いた台詞を惚けた口調で語る話芸が愉しく、自分も同席しているような心地にさせられる。それはアングルが、先生を見つめる生徒たちの視点に近いからだろう。だからこそ、そこで交わされる台詞が実際にはそれほど可笑しくなくとも、場の雰囲気に解されて笑みが浮かぶ。
ナレーターを務めた寺尾聰は劇中で台詞が無く、オイッチニの唄でも、皆が歌って行進するのには参加せずに、先生の傍らでアコーディオンを弾いている。そうした控えめな、自分の存在を前面に出さない生徒もまた、先生を慕っていて、その思い出を懐かしげに語るという事。先生もまた、教室で隠れてタバコを吸っていた生徒達を頭ごなしに叱ったり罰したりしない、度量の広い人格であり、第一回・摩阿陀会で祝辞の代わりに駅の名を延々と暗唱し続ける生徒の芸を、会場から他の生徒がいつの間にか居なくなる中、最後まで聞いている。
そうした、一人一人を大切にする先生の人情味がよく分かるのは、猫のノラが行方不明になった時。小学校の校門前でビラを配る先生に、一人の少年が訊く。猫なら他にもいるよ、と。先生は、君には弟はいるかい、その弟の代わりに、他の赤ん坊でも構わないかい、と答える。そう、一人一人は、他の誰にも代えられない存在なのであり、人だけでなく、猫も同じなのだ。(とは言え、板東英二の芝居の拙さは犯罪的であり、交替させて然るべきではなかったか、と)
来客を嫌がる素振りを見せていた先生も、ノラが見つかったという報せを聞きつけた近所の人たちが自宅に集まると、有難う、有難う、と感謝を示す。結局これは、人違いならぬ猫違いに終わるのだが、一匹の猫、という小さな存在が人々を結びつける。先生が、外の雨にノラの現況を心配する場面で、先生の脳裏に映じる、瓦礫の中を行くノラの姿。僕は黒澤映画を全て観た訳ではないが、彼の映画では数々の人物たちが、激しい風雨の中を行く光景が描かれていたように思う。遺作となったこの作品では、一匹の猫が風雨の中を行く。先生がノラを気遣っていたように、「映画」は、こうした小さな存在の姿を、画面に収めて見守る繊細さによって作られるものなのだ。
先生は、不在のノラの姿をありありと想像してしまうからこそ心配をしてしまうのであり、また彼自身言うように、空想力が豊かだからこそ、闇夜を恐れ、そこに何か自分を脅かす者が居ないか、と考えてしまう。想像する事、見つめるという事。映画はこの二つで成り立っている。先生がこの映画の最後に見た夢では、彼はまだ少年で、かくれんぼの最中。「まあだかい」と彼を呼ぶ声に、「まあだだよ」と応えながら、隠れ場所を探している。だがその時、空から射し込む夕陽の、鮮烈な赤。その美しさに、我を忘れて見惚れてしまうという事。この場面に、黒澤の、見るという事への飽くなき憧憬を認める事が出来るだろう。夕空は刻一刻と色を変え、まるで水に絵の具を溶かしたようだ。まだ描くべきものがある、見るべきものがある、という意志が、無限の空に広がっていく。
第十七回・摩阿陀会で生徒たちは、先生に言う。またオイッチニの唄をしましょう、今の社会にはますます先生が歌にするべき事が多い、と。だが、急に倒れ、そのまま帰宅を余儀なくされる先生。人生は短く、芸術は長し。先生は、生徒の孫たちに、何か好きな仕事を見つけて下さい、と言った。こうした黒澤映画のメッセージ性は、ややもすれば説教くさい印象を与える事もあった訳だが、この場面で僕が好きなのは、先生がこのメッセージを、ケーキと一緒に子供たちに贈った、という事。ケーキ、つまり、何らかの愉しみがなければ映画ではない、という気骨を、僕は勝手に感じ取り、勝手に今、感動している。
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