[コメント] 真救世主伝説 北斗の拳 ラオウ伝 殉愛の章(2006/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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この映画を見てよかったと思うのは、自分の中で抱えて来たぼんやりとした違和感を明確な拒否感へと換えることができたこと。何に対する違和感(やがて拒否感)かというと、それはまさしく、「ラオウ問題」に対しての、なのである。
ラオウというのは大変人気のある「人物」(もはや「キャラクター」などとカタカナ言葉は使えまい)で、このサイトのコメント群の中でもしばしば引用・言及に出くわすほどであるのだけれど、しかし、周知の通り、彼は当初単なる悪役であった。「単なる」というより、かなりの度合いで、それはもう並ならぬ、ぶっちゃっけ救い難いほど露骨な、極悪非道役であった。
その彼が当初の設定を超えて、一人の英雄譚を築き上げて行くのは、ストーリーマンガにとって矛盾を犯し続けるだけの明らかな暴挙でありながら、それ自体が一つのドラマであった。ラオウを愛するという人々の中には、あたかもラオウという一貫した英雄が登場していたかのような口ぶりで、この問題の存在を軽視する人も多いが、私としてはむしろ逆ではないかと思っている。当初単なる悪役として登場した者が、闘って闘って、互いに血を流し血を流しする中で、ここまでやったら、もうこいつにだってドラマがあっていいじゃないか、もう悪役とかそんなことはいいじゃないか、っていう、その瞬間にめぐり合う。混乱も矛盾も全てを引き受けて物語がそれを許すその瞬間、連載漫画という時間の重みが生み出す、作者のコントロールを超えた、昇華の瞬間、これを持っていることが『北斗』の魅力、ラオウの魅力なのではないか、と思うのだ。
本作において、むしろそれを体現してくれているのはサウザーであろう。子供狩り、毒、人質・・・と弁解の余地なく卑劣尽くしで登場する彼が、しかし、ケンシロウを「対等の相手」と認め、帝王たる威厳を放ち、全力で散って行く様は文句なくカッコイイ。そして、ケンシロウもそれを真っ直ぐに見届けている。闘いの終わりにはもはや怒りなどなくなっているのだ。これこそが『北斗』なのであって、最初から自らの外に多くの代弁者を抱え、その上に安座して「むぅ」「ぬぅ」などと深慮ぶってるラオウなどカスである、ゴミである。全くファンを名乗れない私ではあるが、「首尾一貫したラオウ」に果たして魅力などあるのか?、それを北斗ファンを名乗る人々に問いたい。
わざわざ新キャラクターを配置して「修羅の国」をしきりに語らせる。この、ラオウ純化に向けた翼賛体制を目の当たりにして、痛感するのは、この「純化」はあの「昇華」の全く対極に位置するものだということだ。確かに映画化するに当たって原作の矛盾を忠実に引き受ける意味などは全くない。しかし、新たな「純化」によって神話的再構築を図る修正よりも、むしろあの「昇華」をこそ再構築するための修正であって欲しかった。
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