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[コメント] 麦秋(1951/日)

時に過剰とも思えるほど人の出入りが激しいせいで、画面に厳密な構成美が認めにくい嫌いはあるが、この「人の出入り」はそのまま本作の主題でもある。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







父と娘の一対一の対決の映画『晩春』とは対照的で、人的関係の凝集と拡散が作品全体を呼吸させる。紀子(原節子)の見合い話についても、家族間で互いに速やかに伝達し合う。空ショットであっても、犬や小鳥が居たり、画面を横切る電車が見えたりと、空虚感は薄い。だが、後半に差しかかる頃からか、人の不在を感じさせるカットが現れるようになる。

この「不在」感で特に気になったのは以下のシーン。家出していた子供たちが見つかり、安心した様子の康一(笠智衆)が同僚と、矢部(二本柳寛)を秋田に行かせる話をして部屋から去るカットで、誰も居なくなった部屋のカットが、若干長めに置かれているのだ。大して本筋と関わりの無さそうな矢部の不在が予告されるシーンでのこの演出に「何かある」と思っていたら案の定、最終的にはこの矢部が、紀子も一緒に連れて行くことになるのだ。

家族の、円環的な調和が徐々に解けるのと同様、女同士の友情もそうした過程を経る。結婚式のシーンで、未婚者と既婚者に分かれて軽い口喧嘩をし合うシーンでは、「もう帰る」と言って席を立った既婚者組の二人が、そう言いながらも別の席に座って会話を続行するし、すぐに「鎌倉に来ない?」という友好的な会話に繋げられていく。この円満な関係は、だが、結局は鎌倉に来たのは未婚のアヤ(淡島千景)だという顛末によって、静かに、だが唐突に解消されてしまうのだ。

終盤、家族たちが記念写真を撮るシーンでは、家族一同が正面を向いた、例外的な構図がとられている。皆、和気藹々とした雰囲気で撮影に臨んではいるのだが、誰ひとり互いの顔を見ていないこの構図は、異様に切ないものがある。たかが記念撮影のシーンが印象的になり得るのも、小津の徹底した構図の計算の積み重ねがあってこそだ。

子供たちが遊んでいるのは模型の列車で、よく電車を作品に用いる小津の好みの反映かと思えて微笑ましい。小津映画の子供は大抵可愛げがないのだが、微かに暴力性さえ持ち込んで見える子供の存在もまた面白いところ。結婚話に際しては大人たちは、子供に、その場から去るように言う。そんな、内なる異物としての子供は、一見慎ましいようでもある小津映画に、野生的なエネルギーを供給してもいる。

(評価:★3)

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