[コメント] お早よう(1959/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
「お早う」「いいお天気ですね」「どちらまで」等々の挨拶は小津映画そのものじゃないかね、少年?と観客側が突っ込み、かつ笑いたくなるのだが、少年(設楽幸嗣)とその弟(島津雅彦)の英語教師である佐田啓二は、英語つまり外国的な視点を持つ者としての立場から、その日本的な「無駄」への批判を、一つの見方として受け入れながらも、むしろその無駄こそが社会の潤滑油ではないのかと言う。そうした、客観的かつ相対的な立場だからこそ、こうした肯定の言葉が出るのだとも言える。実際、少年らの暮らす隣近所のオバサンたちは、あれだけ緊密な関係でありながらも陰口が密かに交わされる、陰湿で嫌みな「社会」のシステムをまざまざと見せてくれているのだ。
「昼間から西洋の寝間着で」云々と陰口を叩く隣近所のオバサンらにうんざりしたらしい泉京子が佐田のマンションを尋ねてきて、ここ、空いてる部屋無いのと訊くシーンの後で、「隣近所が無い所なんて無いじゃないの」という台詞が出ていたが、その佐田のマンションでは隣近所の人間の姿は全く見かけないのだ。泉の家は、子供たちがテレビを見に行くので、兄弟の母親(三宅邦子)からもいいように思われていないのだが、「西洋の寝間着」と「テレビ」という二つによって、ビールやお金を気軽に借り合う隣近所的社会の次の社会を暗示する存在でもあるだろう。
定年退職して食い扶持が無くなったことを飲み屋で愚痴っていた東野英治郎が電気屋の外交員になったことで、兄弟らの家にも遂にテレビが来ることになるのだが、この、定年という時間の流れによる不可抗力によって、新時代のメディアとしてのテレビがやって来るという、殆どなし崩し的とも言える解決(解決と言えるのかどうか)。兄弟らの沈黙のストライキそのものが成功したわけでもなく、彼らと両親との確執も、何か人情的な解決が成されるわけでもない。実にクールな脚本。東野が再就職の報告に来たとき、三宅は夫・笠智衆に言う。「私達もそろそろ考えないとね」「何を?」「定年よ」。
沈黙のストライキ中、学校の給食費のことを報告できないシーンや、婦人会の会費を杉村春子が横領して洗濯機を買ったのではないかという疑惑、またテレビが最終的には購入されるその理由等、金絡みの出来事が再三描かれる。押し売り(殿山泰司)の登場もその一つと言えば言えるのだが、彼の後で、防犯ベルを言葉巧みに売りに来る男(佐竹明夫)も殿山とグルなのだ。杉村は、お婆ちゃん(三好栄子)に押し売りを退散させたのでベルは要らないと言うのだが、そのお婆ちゃんは、産婆という、これまた古い職業の女で、会費を預かっていたことを忘れていたために、「そろそろ楢山だよ」と、他ならぬ杉村に宣告されてもいたのだ。結局、防犯という意味でも、この古い社会は機能不全ということなのだろう。
おならの達人になるために軽石を食べるという行為をしていた少年らは、母親が軽石の減っていくのを不審に思い、「猫いらず塗っておこうかしら」と計画することで、シャレにならない危機に陥るのだが、ちょうどそのタイミングで、軽石は体に悪いし死んでしまうという佐田からの注意によって軽石は中止、本当に死んでしまうのを回避する。穏やかそうに見えて、意外とこうしたブラックな笑いが散りばめられている。
ラストシーンでは、おならに失敗したせいでまたもやパンツを汚したらしい少年(白田肇)が、杉村演じる母に叱られている。新時代への推移を淡々と見つめるこの映画のラストが、パンツを汚して母に叱られる少年が、そのせいで学校へ行けないという、幼児退行的な光景であるということ。新時代=少年は、まだ巣立ちするところまではいってはいない。ラストカットでは、家の外に干されたパンツの向こう側に、だがやはり、冒頭のシーン同様、電線が見える。このフラットな眼差しがいかにも小津的。ジョン・フォードのように、時代の推移を捉えながらも最終的には、郷愁的な美によって全てを包み込むタイプの作家とは真逆と言える。そこを分かっていないヴィム・ヴェンダースは『東京画』のようなものを撮ってしまうわけだが、外国人にはなかなかニュアンスが伝わり難い所なのかもしれない。
佐田は、「無駄」を肯定する一方で、大人は無駄なことは言えても、肝心なことは言えなかったりするものだと、姉(沢村貞子)と会話を交わしもするのだが、そのとき、姉が指摘する、久我への想いを告げられない佐田の在りようは、ラスト付近での、駅のホームで佐田と久我が交わす、「いいお天気ですね」とか、「あの雲、何かに似ていませんか」といった他愛ない会話によって実証される。だが、却ってその回りくどさが穏やかな味わいを醸し出してくれていて、いいシーンなのだ。嫁入りするしないを巡るプロットが多用される小津映画の味わいも、そうしたところにあると言える。その一方、佐田の生徒である島津少年は、「アイラブユー」などと気軽に口にし、笑顔の久我から「こらっ」と言われていたりする。愉しい構図だ。
(評価:
)投票
このコメントを気に入った人達 (2 人) | [*] [*] |
コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。