[コメント] コンクリート(2004/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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彼等の所業は「ヒト」としての臨界点を越えている。いわゆる「鬼畜」だ。私にはまったく関係の無い事件であるが、この事件に対してはどうしても許せないという激しい感情が先立ってしまう。
大方の世論は少年法を曲げてでも少年たちに死刑を望む声が多かった。そんな事件である。
本作はDVDのメイキングやら公式のHPやらで制作側自らが、加害者・被害者の側を行ったり来たりしてしまったと述壊している。私からすると被害者側に立った視点なぞなかったように思えるのだが、それは良しとしよう。問題は制作側が何を伝えたかったのかである。
本事件を忠実に描こうとすれば壮絶なエログロのカルトムービーにしかならないだろう。そこで「鬼畜」も「人間」である、誰でもこうなる側面を持ち合わせる危険があるのだよってな人間ドラマを持ち込んでしまった。本作は主犯Aの環境や状況を陳腐なドラマで描いてみせたのだ。
私は前半の陳腐なドラマに腹を立てていた。彼等は鬼畜だ。彼等はジェイソンや『悪魔のいけにえ』のレイザーフェイスの如くコミュニケート不可能な「怪物」として描かなければならなかったのではないか?
本作が少年たちを弁護しているとは言わない。言わないが、あんな少年たちの背景なんぞ見たくもないんだ。ラストに至っては主犯Aは涙を流し罪を悔いているようにすら描いた。・・・本当なんだろうか?先に出獄した仲間の出所後の言動やら犯罪も世間に知れ渡っている。
本作はどのスタンスで映画を撮るべきか悩んだという。そして迷い、映画としては破綻した。致命的だが、ではどうすれば良いのか?自問するが私には答えが出せなかった。 どう撮っても被害者の尊厳を冒涜せざるを得ない内容になるだろう。
大変不謹慎な提案だが、もしも本事件を題材に映画を撮るならば、現場の階下で40日間生活を続けた少年の両親を題材に撮るのはどうだろう。何が行われていたかを、うっすらと、もしくははっきりと認識しながら事件を止められなかった「ヒト」を描く作品である。
「怪物」である少年に感情を移入する事が出来る者などいない。だが、弱く・ずるく、かつ親としての威厳もみせなくてはならない「ヒト」というなんとも哀れな存在が本事件で唯一我々が感情を推察出来る存在なのであるから・・・
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