[コメント] 山椒大夫(1954/日)
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間抜けな髭を生やした山椒大夫は、忙しそうにチョコマカと歩き回り、目上の者にはヘイコラし、威厳も何もなく、つまらぬ小悪党(もっと言えば、卑俗なブルジョワ階級)として描かれている。
香川京子の演じる安寿の凛とした美しさがこの映画の一服の清涼剤だが、なぜ鴎外版の原作での姉という設定を逆転させ、妹にしたのか。鴎外版は、まだ少女である安寿が、更に幼い厨子王を守るために姉として気丈に振る舞うそのさまが胸打つのだが、溝口版のこの映画では、堕落する兄を更生させる献身的な妹という、なんだか都合のいい女にされた観がある。
山椒大夫の許に連れて来られ、名を問われても頑なに口を閉ざす安寿と厨子王。そこで新たな名を与えられるが、鴎外ではその名づけを行なうのは山椒大夫。姉弟の主となる存在が自ら名を与えるというこの『千と千尋の神隠し』的なアイデンティティの剥奪。だがこの溝口版では、逃亡を図った奴婢に烙印を押す父を拒んで出て行く太郎が、兄妹(と書かざるを得ないのが腹立たしい。本当は姉弟なのだ)を励ますために名を付けてやる。この太郎、鴎外では、姉弟が連れて来られた時点で既に居なくなっており、唯一助けになってくれそうな太郎も居ない、そうした者は山椒大夫の許には居られない、ということそのものが姉弟の置かれた環境の厳しさを痛感させるのだが、その点、溝口では甘いヒューマニズムが感じさせられる。
安寿・厨子王・母らが人買いの手に落ちる原因となった国守の掟(=旅人を泊める行為の禁止)についても、鴎外では、人買いが立ち回るならその者らを取り締まるべきなのに、旅人を路頭に迷わすような掟を定めることの不合理を言いながらも、《しかし昔の人の目には掟である。子供らの母はただそういう掟のある土地に来合わせた運命を歎くだけで、掟の善悪は思わない。》というように、社会的な掟もまた運命の巡り合わせのように、その下に置かれる者の力では敵わぬものであった時代を描く。
山椒大夫の末路も鴎外では、元々の説経節「さんせう太夫」での復讐劇を排し、奴隷らに賃金を払うことになったが家は富み栄えた、という、落としどころとしてはあまりに不合理な顛末を与えているが、これもまた時代、或いは社会のままならなさを作品に導入したと言え、そこに、勧善懲悪というファンタジーから一歩進んだ鴎外の、冷徹な近代的意識によって過去の時代性を客観視する姿勢を見ることもできる。
だが溝口版では、あたかも労働者解放運動の旗手かのような厨子王の行動によって、山椒大夫は処罰される(だが直後に厨子王は辞表を提出して自主退職といった格好になっていて、彼の下した処分が最後まで実行されたのか甚だ疑わしい)。自らのせっかく得た権力者の地位と引き換えに復讐を行なうという、なんだか左翼インテリの理想で描いた勧善懲悪といった作為的な話になってしまった。鴎外版には、守本尊の奇跡とも呼べるシーンが二度描かれるが、宗教はアヘンとでもいうかのように溝口版では共に排除されている。
宗教といえば、親子らを人買いの許へ誘い込むのは、親切を装った巫女だが、鴎外版では男。力の強そうな男だからこそ、この男の手でどうにかされてしまうのではないかというサスペンスが生じ、場面も引き締まるのだが、溝口版では、神頼みを徹底して批判したかったのか何なのか。船頭が登場するシーンでは、いかにも彼らが怪しい男たちなのだが、そこから親子が引き離されるシーンは、鴎外版の、普通に船に乗せられたかと思うと気づいたときには船がそれぞれ反対の方向へ、という戦慄的な場面展開と比べ、溝口版では力ずくで男どもが引っ張っていき、騒々しいシーンと化している。そうした、安直な意味での「アクション」で演出するのが映画的だとでも思っているのだとしたら、何とも情けない話である。女中の姥竹が海へ落ちるシーンも、鴎外版では、逃れられぬ悲運を悟った彼女自ら海中へ身を投げるという行為がまた、当時の人の宿命観とでもいったものを感じさせるのだが、溝口版では船頭に蹴飛ばされて落ちていく。
奴婢としての仕事にもすっかり慣れた様子の安寿の許へ、世話するようにと連れて来られる新入りの小萩だが、鴎外版ではむしろ安寿こそが、新人として仕事の仕方を教わっている。このシーンがあるからこそ、何も分からぬ環境へ一人身を置くことになった安寿の寄る辺なさ、そこへささやかな救いの手を差し伸べる少女の存在という掛け替えのなさが噛み締められる。「伊勢の小萩」と呼ばれているところがまた神の加護のようなものを感じさせるではないか。溝口版も、この二人の立場を逆転させるならさせるで、人に教えるほどに仕事に習熟する安寿が、必死で仕事を覚えていった過程を描くくらいのことはするべきだろう。子役から早々に香川と花柳喜章にバトンタッチさせることを優先させたがためにこういうことになる。物語よりも役者優先という映画の醜悪さを感じざるを得ない。
鴎外版では、兄妹の父は上役の罪に連座という、受動的な運命によって左遷されるのだが、溝口版では、経世済民政策を行なおうとして罰せられており、あるべき政治家像のように描かれる。鴎外版では回想シーンに父が登場したりはせず、むしろその存在感の希薄さそのものが、運命の儚さの象徴のようでさえあるのだが、溝口版では、幼い厨子王に、人の道についてご立派なお説教を垂れるのがまた鬱陶しい。思想的にどうとか言いたいのではなく、そうやって明確に善悪を切り分けてそれに沿って物語を転がしていくその恣意的な態度が気に食わない。
安寿が厨子王を逃がすシーンは、何か『楢山節考』のように病人を棄てていくシーンで急に思いついたように厨子王が言い出すが、鴎外版では、或る出来事によって厨子王と安寿の共有する恐怖が鮮烈に描かれ、そこから安寿の様子が一変してしまう、という流れになっていて、実際に逃亡が行なわれるまでに間隔がある。そのことで、安寿の心境の変化、一人胸のうちに秘めた決意の悲壮な固さが感じられる。だが溝口では、兄の思いつきを実現させるために自己犠牲を払うだけであり、そこが都合のいい女という所以なのだ。鴎外は、人知れず決意を秘めた安寿が、仲の良かった小萩に対しても無口になり表情もなくなるというその描写によってその悲壮感を高めていたが、溝口の方では、そもそも小萩は何のために出てきたのか分からない。原作に書いてあったからとりあえず出してみただけなのか?
逃亡者・厨子王を匿う曇猛律師の登場シーンは、鴎外では非常に映像喚起的に描かれているのだが、その美しさを実際に映像化してみようという気概など微塵もないカットで登場させてしまうのがまた興をそぐ。
兄妹の母が、逃げようとした罰として足の腱を切られるシーンのあと、人の助けを受けて海の向こうを見晴かすシーン、介添えの女が言う、「今日は新潟は見えないねぇ」・・・・・・。舞台は平安末期のはずだが、いつの間に廃藩置県をしたのか。それを言うなら「越後」だろう(そこで子どもらと引き離されたのだ)。もう無茶苦茶だ。
鴎外版では、幼いながらも気丈さを失わない厨子王の健気さに打たれるのだが、溝口版ではむさ苦しい下品な男に成り果てた。山椒大夫の下で堕落してその日暮らしに満足しようとしている姿のみならず、脱走後、関白・藤原師実に自分の身分と境遇を訴えるシーンなど、必死の形相で金切り声を上げて(ひっくり返った声で「お願いでございます!お願いでございます!」)見苦しいことこの上ない。師実から父の死を告げられたのち、父の跡を継いで丹後の守になれと言われると、驚喜してセカセカと床を這いまわる。山椒大夫のところへ乗り込んで奴婢らを解放するシーンでは、泣きながらまたも金切り声を上げ、こちらとしては失笑せざるを得ない。
国守となった厨子王が、奴婢解放令を発しその御触れを部下に立てさせるが、山椒大夫の手の者がそれをすぐさま次々に抜いていく。遂には両者が直接もみ合いになるのだが、なんだかデモ隊と機動隊の衝突のように見えてしまう。
社会的な意識を持って時代物を描くということ自体は否定しないが、それなら『七人の侍』のようにエッジの効いた脚本を書きなさいと言いたい。人権万歳、人間平等、搾取反対、というスローガンに基づいた勧善懲悪のようなこの幼稚な脚色はおぞましい。
全体的な印象として、幽玄の美だとか、宗教性、高貴さといったものを解さない者たちが現代的なセンスで蹂躙し果てた映画化と言わざるを得ない。安寿の入水のシーンだけは、その静謐さと諦念を水墨画風の映像美に閉じ込めることに一応成功してはいるのだが。個人的には、香川京子一人に救われたに等しい映画と思える。
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