[コメント] バッシング(2005/日)
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それは実際決して誇張ではない(と、思う)。
母親の職場の同僚の中年女性が何気なく口にする「アレ」という言い方。母親は堪らず、「アレってなんですか!?」と声を荒げることになる。そして同僚の中年女性はその激した反応を思わぬ反応として受けとめる。その距離。しかし実際、それは当事者にとっては「アレ」としか言い様のない、不可解で、不条理な、わけのわからない出来事であっただろう。件の中年女性のような無責任で無神経な傍観者などからしても、悪意無く、しかし口さがなく口にされる「アレ」という言い方が、如何にも事態の正体不明ぶりを暗に証しているように思われ、興味深かった。実際それは、いったいどういう事態だったのか。ゲスなインターネットが問題だったのか、ヘタなナショナリズムが問題だったのか、あるいはそれらの渾然一体となった何ものか、だったのか。
ともあれ、その無責任で無神経で、かつ無慈悲な「アレ」は、如何にも訳知った顔の良識のツラをして当事者に圧し掛かることになる。そのじつそこにあるのは、本当の意味での想像力の欠如なのでしかない。はじめにこそ理由があって叩かれていたものが、そのうちに叩かれていること自体が理由になる。そのうえで生じた不可解で不条理な現実には誰にも責任がないはずなのに、想像力の欠如に無自覚な無責任が責任者を捏造する。その担い手が人格の破綻者などであったりするのならまだ分かり易いかもしれないが、実際はそれらはその日常生活に於いてはごく普通の人々なのでしかない。ごく普通の人々が「アレ」に関わることで暴力的な抑圧者になる。
この映画ははっきり立場を表明している。それらは糾弾されるべきだ、と。その意味ではこれはジャーナリスティックな映画だと言えるかもしれない。物語が前提となる事件の全容を描き出すことなく展開されていることも、そのことを裏書する。ここでは事件は、共通の暗黙の了解事項として前提されてしまっている。つまりこれはどこまでも日本に住む私達の現実に、「日本」に内属する映画なのだ。「日本」に内属する映画は、しかし主人公を空の向こうへと脱出させる。これは恐らく、出口が無いことの裏返しなのではないだろうか。作劇のうえで空の向こうという出口を用意しなければ、作劇が完結しないからこそそう描かれたように思えてならない。つまり、「アレ」が跋扈する今の「日本」には、出口が無いのだ。
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