[コメント] あかね空(2007/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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下町の人情を描いている筈のこの映画が、生活感が薄味に思えてしまうのは、映像も、美術も、衣装も、そして描かれる人間模様も、余りに清潔で、綺麗に収まりすぎているからだ。汚れているのは、例えばおふみ(中谷美紀)が手を差し伸べてやる、乳飲み子を抱えながらも乳が出なくて困っている貧しい女や、おふみに施しを求める浮浪者(実は傳蔵の間者なのだが)、父の死後に帰ってくる、勘当された長男くらいだ。汚れている者は、ドロップアウトしたりアウトサイドに追いやられている者達だけで、この映画に映し出される人々の生活空間には、傷も染みも埃も何も無いかのようだ。
おふみが夫と喧嘩をした後で、不機嫌なまま一人で店に帰り、施しを求める浮浪者を野良犬のように追い払った直後、店の桶を空けて覗くと、その水面に、自分の顔が般若の形相で映っている。それに驚いて動揺した彼女は慌てて豆腐を手に店の前に出て浮浪者を探すのだが、この姿には、四六時中善人である事に、強迫観念のように囚われているかのような異様さも、多少は感じずにはいられない。水面に映ったのは、般若の形相というよりは、文字通りの般若の面なのであり、このような記号的な表現には、負の感情を抱えている人間は非人間的だ、とでもいった単純素朴な人間観が感じられる。
こうした、潔癖すぎるほどの単純な人間観が、本作の生活感の無さに結果しているのではないか。綺麗に作られた江戸の町を、綺麗に描かれた人間達が歩いている。そこに生きた人間を求める方が間違いなのだろう。
内野聖陽が光と影のような人物(永吉と傳蔵)を演じているのは、清兵衛(石橋蓮司)とおしの(岩下志麻)が永吉に、幼い日に迷子にさせたままの息子の姿を投影している事と、その息子が実は傳蔵であるというのがその理由なのだろう、とは容易に推察できる。そして傳蔵も、自分が失った家族の姿を、おふみ親子に投影しているようにも見える。傳蔵は僧侶の格好をしているが、おしのからの言づてを永吉に伝える和尚は、長男を勘当した永吉に「一緒にいたくてもいられない親子もあるのだ」と諭す。観客はこの言葉に傳蔵の気持ちを投影しても良いのかも知れない。
清兵衛は、自分が立ち話をしていたせいで息子を失ってしまった事を悔いていたが、おふみもまた、自分が目を離していたせいで長男が大火傷を負ってその痕がずっと残っている事に罪悪感を覚えているようだ。彼女は長男の事を特に構い、その様子を娘は、堅い表情で見つめている。帰ってきた長男を、この妹は、兄が父を殺したようなものだ、と批難する。
このように、目の前で展開する人間模様の裏には色々と読み取れるものもあるのだが、結局は大団円の一件落着に全ての人物が綺麗に収まっていく様には、生の人間の感情がぶつかり合った感触が感じ難い。描かれているのはキャラクターであって、人間ではないという印象が残る。おふみが永吉に惚れるのも、二人の出会いの場面からして既に物語のレールに乗っているのが感じとれ、決められた升目にすっぽりと収まっただけにしか見えない。突然「18年後」に飛んで彼女の性格がかなり変わって見え、しかも余り年を重ねた風に見えないのも、一瞬の違和感で終わり、「あぁそういう設定なんだな」とすぐさま納得してしまう。そうした、全くの書割の世界なのだ。
書割の範囲内で、役者はよく演技していたとは思うのだが、監督は人の感情の澱や影には、全く優しい目も関心も向けられない人物なのではないか。
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