[コメント] バベル(2006/仏=米=メキシコ)
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バベルの物語に象徴される異言語間のdiscommunication。ただし、それは前提に過ぎない。
この映画で描かれているのは、同じ言語を解するもの同士の理解不可能性という絶望であり、言葉の通じないもの同士の理解可能性という希望である。
チエコとその父は、手話という共通言語をかろうじて持つものの、すれ違う。刑事とも読唇術と筆談によって話すことが出来るが、刑事の意図を誤解し続ける。結婚式に行くため、子供を一日だけ預かってくれというアメリアの訴えは誰にも届かない。メキシコ国境の警備隊員は、「この人は君の叔母さんかい?」という問いに「ちがう」と応えた少女が省いた「この人は叔母さんではなく家政婦」という意味を捉え損なう。アメリカ人観光客はリチャードの訴えを聞かずに早々にバスで去ろうとする。モロッコの警察は言葉よりも前に弾丸を放つ。通訳の友情にリチャードはお金で応えるしか術がない。
他方で、リチャードの子供たちはメキシコで最初は驚きながらも、そこの人々と共に楽しみを分かち合う。通訳の村の老婆が苦しむスーザンに煙草を差し出す。チエコの父はハッサンにライフルを与える。そして、チエコとその父は最後には分かり合う。
そして、四つの国(言語)には、それぞれの特徴が付与されている。メキシコでは、言葉以外のもの(音楽、ダンス、祝砲、身振り等々)によってこそ表現が行われ、日本では、過剰な言葉が上滑りして相手に届かず、アメリカ(人)は、英語の通じない人々を徹底的に忌避し、モロッコでは、言葉は最も原始的・直接的・暴力的な意味を運ぶ。
本作は、言語におけるcommunicationの不完全性という人類の根源的問題を扱っている。
しかし、この問題はそれほど優れた洞察によるものなのだろうか?多くの人々はこの絶望と希望に気づいているはずであり、多くの映画が主題化せずとも、この問題を含意してきたはずである。本作では、この問題の多くが、登場人物たちの愚かさに起因するものになっている。たとえそれが悪さに起因するものではないからといっても、また、愚かさが人間の本質のひとつだからといっても、このような悲劇が愚かさによって引き起こされるものとして描くことは浅はかではないだろうか。
それでは、この作品の映画的手法がこの主題を最も効果的に描くものなのだろうか?三つの物語の脆弱な連関が、それ自身、communicationの脆弱さを象徴していると好意的に解釈することも出来るかもしれない。しかし、それは観客に通じていないし、むしろ、この監督の前作との連想から、監督自身の特長でしか無く、本作にとって本質的・不可避な手法だとは捉えがたい。
結果として、本作はバベルというアイデアで撮っただけにしか思えず、それ以上のものを引き出し得ていない。アイデア倒れ。それにともなう手抜き脚本&演出。もったいない。カンヌも地に墜ちたな、いまさらだけど。
追記:CMで刑事がライフルの件で訪ねてきていると言うシーンがあるため、本編を見た際に、チエコが刑事の訪ねてきた理由を誤解しているというくだりが完全に殺されていた。配給会社の連中は自分の配給する作品のキモもわからんほど映画素人なのか?
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