[コメント] スパイダーマン3(2007/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
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まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
これは「アメリカンヒーロー」の話ではないだろう。
それは、主人公がオタク(ナード)でしかなく、「悪のパワー」を身に着けたとしても、結局着飾ったり、路上で踊ったり、自分を振った彼女への仕返しをする程度の「悪」しか持ち合わせていなかったり(ま、一応伯父の敵討ち含め、色々してましたけど)して、或いはヒーローが守るべき女が結局なんだかんだ言ってただのビッチだったりして(「ただのビッチ」は多少言い過ぎとは自覚してる)、「なんじゃそりゃぁ〜!」な展開。そこに居るのはマッチョなスーパーヒーローではなく、自分の人生のその後に悩むナヨナヨした男でしかない。
このダメ男っぷりが泣けてくる。『スパイダーマン』シリーズはヒーローアクション映画であると同時に、上質のコメディだ。
閑話休題。
そこに居るのは、“ただの男(ヒト)”でしかない。普通のヒトだ。その真っ白でナヨナヨしたイジメられっ子がある日突然「パワー(大いなる力)」を手に入れ、そして戦いを始める。
そして遂にこの3作目で、その「大いなる力」による「自己の崩壊」との闘いに行き着く。超超人的な力を手に入れたピーター・パーカーは私怨に走るか、それを封印して「大いなる力」を「大いなる力」として認識し、その責任を全うするかどうかの間で葛藤する。サム・ライミはこれに一流のエンターテイメントをスパイスとして混ぜながら、「アメリカンヒーロー」を描き――それをメタファーとして「力」の物語を描ききってみせた。
◇
私怨を晴らし、ダークな力を意のままに操ってよい気分になっているピーター・パーカー。私怨を晴らすことに燃える3人の男(ゴブリンJr、サンドマン、ブラックスパイダーマン)。
私怨の輪廻は永遠に輪廻し続け、自分に回帰してくる。そこに残るのは、空虚な満足感でしかない。「敵対私」「悪対善」――引いては「悪魔対神」の対立の如き「関係の絶対性」を以って闘おうとすることによって、苦悶を続けるしかない。
しかし、そんなピーター・パーカーも私怨の輪廻に苦しみ、スーツを脱ぎ、元のスパイダーマンへと戻り、最後の闘いへと飛び出してゆく。その背中にかぶさるのは星条旗。
その鳥肌モノの演出に心底痺れた。自分の中で過小評価し過ぎた気がしてならない1作目2作目を見直してから来るべきだと心底後悔した。サム・ライミは、「アメリカンヒーロー」を――括弧付きの「ヒーロー」を――描こうとしたのではない。真の意味のアメリカンヒーローを描こうとし、そしてそれを見事にやってのけたのではないか。
一般的に「ヒーロー」と呼ばれる者たちが絶対に持つもの、持たざるをえないもの、ヒーローがヒーロー足りうるための絶対条件――それは「力」。そして、その「力」を、「大いなる力」を、操るためには絶対的な意志が要される。意志を持ち、決断をする人間には、責任が伴う。本当に守るべきものが何かをその時認識できていなければ、問題はこじれるばかりでしかない。否、本当に守るべきものが何かを、その時“あまりに強く”認識していれば、それもまた問題がこじれるばかりとなる。この無限の葛藤の中、「それでも戦わなければいけない」という決意を持つ者が、初めて「力」の持ち主となる。
クライマックス、スパイダーマンが星条旗をバックにした瞬間、俺の目に涙が溢れたのは、全ての輪廻を脱し、苛烈な自己の闘いに身を投じるスーパーヒーローの姿をそこに見たからである。
◇
若干余談になるが、トビー・マグワイアは『シー・ビスケット』でも「アメリカン(ドリーム)」な話を演じていた。何か縁でもあるんだろうか。
あの映画も、従来の型の「アメリカンドリーム」から脱却してゆく物語だったと思うのだけども。
影のあるアメリカンヒーローって意味じゃ、スパイダーマンと似てるのか。
◇
どうでもいいけど、NYには絶対に住みたくないと思いました。
事故多すぎ。
◇
一応★5をつけて、レビューは「絶賛」の方向で書いたけども、色々と不満は残っている。
まず物語が若干詰め込み過ぎな感があって、少々展開が強引過ぎる気がしたこと。
隕石落ちてきたりして。それはちょっと強引過ぎます。
それから・・・・やっぱりラストは強引にまとめすぎたような気がしてならない。
「君を許す」だの何だの。そんなもんなんか?うーん・・・
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