[コメント] しゃべれども しゃべれども(2007/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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仏頂面の香里奈の唇の端が、ほんの数ミリ空に向かって引き上げられたその瞬間、ぼくはその幸福にもだえてもだえてもだえて死ぬるのでございました。★5。
以下、余談。
二つ目という微妙な地位にいる落語家の誇りと焦心を丁寧に描いた脚本と、それに応えた国分太一の芝居がすごく良い。前半の彼は落語に情熱を燃やし、落語を愛し、落語家である自分に誇りを持っている。マジメで、ハングリーで、ストイックに落語に取り組んでいる。常に着物を羽織って町をゆき、普段使いの言葉もどこかしら江戸弁の混じった古風な言い回しを好んで喋る。彼のこの、人生のすべての時間を落語のために使おうという姿勢は駆け出し者として非常に優秀だ。だがその反面、こうした強い情念は時に「自分を律すること」に偏りすぎるあまり、表現が独りよがりになって、本来もっとも優先すべきはずの「客に伝える」という意識が疎かになることがある。前半の彼の落語が観客に受け入れられないのは、きっとそういうことだ。
そんな国分の演った「火焔太鼓」はしかし、受けに受けた。なぜか。それは、彼自身が「火焔太鼓」を楽しんで喋ったからに他ならない。この段になってようやく彼は気付かされるのだ。「本来、楽しいはずの落語を喋る人間が、その落語を楽しまなくちゃ客が楽しめるわけなんてない」ということを。「火焔太鼓」以降、国分の普段使いの言葉が一変し、くだけた「普通の若者」に近い喋りになる。生き方が変われば、話し方も変化する──このあたりの細やかで神経の行き届いた脚本と演出には唸るばかりだった。
そして、この「話し方=生き方」というモチーフこそが、この映画の主題である。それぞれに不器用な4人が「話し方教室」に集まり、衝突し合いながら少しだけ前へ進んでゆく。
「楽しかったよ」と元プロ野球選手は言った。
「おまえが笑ってくれて嬉しい」と小学生は言った。
「この教室をやってよかった」と二つ目は言った。
「ありがとう」と仏頂面の女は言った。
みんな、言いたくても言えなかった言葉だ。伝えたくても伝えられなかった思いだ。
社会と関わるということは、つまりは、目の前にいる人に伝えたい何かを伝えることであるというメッセージ。ディスコミュニケーションがどうしたこうしたと叫ばれているこの時代において、この映画は確固たる現代性を獲得していると思う。
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