[コメント] ザ・シューター 極大射程(2007/米=カナダ)
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狙撃手として基本的に水平の視点をとる主人公スワガーにとって、ヘリが脅威となるのは、高速で上空を飛び回り、俯瞰の視点から自分を地上の一点として捉えるヘリが、「見る/見られる」関係を逆転させるからだろう。彼の相棒を射殺したのもヘリなら、暗殺者の濡れ衣を着せられて逃亡する彼の車を、目の届かない場所から監視するのもヘリ。終盤の雪山で代議士がやって来るのも、ヘリに乗ってだ。
暗殺犯として追われるスワガーが取り敢えず逃げおおせるのは、乗っている車ごと水中に沈む事によって、相手の視界から消える、という手段によってだ。更に、スワガーが大統領暗殺を阻止する為に、犯人の目線に立って演説予定地を下見していた様子は、密かにカメラに撮られており、その映像がテレビで放映される。ここでも「見る/見られる」の関係の逆転がある。スワガーは、自らの負った傷の手当てに必要な物を買うにも、店を停電させて暗闇に身を沈めてでなければ出来ないのだ。
スワガーに車を奪われたFBI捜査官は、自らの汚名を返上する為もあってか、スワガーが本当に暗殺犯なのか疑い、独自に捜査を行なうが、その過程で、スワガーが立った場所に自ら出向いて、スワガーの目線に立って、事の真相を推理する。その途中、大統領の傍らに居た司教を狙撃した銃の設置場所にも立つのだが、この場所には、実は事件当日には誰も居らず、銃はモニターとケーブルを通して遠隔操作されていたのだ。黒幕と絡んでいる狙撃手が車椅子に乗っているのも、この描写の為ではないのか。
犯人の不在。それは、劇中で語られる、目に見える相手を倒しても、問題の解決にはならないのだという主題の表れだと言えるだろう。つまりは、主体の不在。「目に見える物だけでは真実は分からない」という台詞にしてもそうだ。狙撃手は、目に見える対象を標準に収める事で相手を倒すのだが、可視的な対象が、事の原因でも真実でもないとすれば、最初から敗北が約束されていると言える。だからこそ、最後にスワガーが、銃のプロとしての専門知識によって自らの潔白だけは証明しつつも、肝心の黒幕には手が届かない、という苦渋の場面も活きてくる。
もうここまで言えば分かって頂けると思うけれど、僕にはもう、この映画のラスト・シーンはクソだとしか思えない。この映画の結末は原作とは異なるようだが、ひょっとしたら、公開前の試写会でのモニター調査か何かで、「このままじゃ、後味が悪い!スッキリしない!」という意見が大勢を占めて急遽付け加えられたものなのかも知れない。それくらいに不自然な結末。126分という、微妙に中途半端な上映時間がその疑惑を更に深める。目に見えない、中心的な主体が不在の状況が物事を決定してしまう、という「完全犯罪」は、当のこの映画の結末にこそ表れているのではないか――そんな疑問が頭から離れない。
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