[コメント] THE焼肉MOVIE プルコギ(2007/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
回想シーンで韓老人(田村高廣)は、幼いヨリとタツジに対し、人は誰かと友達や恋人、家族になろうと思ったら、一緒に食事をするものだと説き、「何を食べたかはあまり大事ではない。誰と、何度食べたかが大事」とにこやかに語るのだが、その好々爺な振る舞いと、成長したタツジ(松田龍平)の焼いた肉を食べもせずに杖で床に払い落とす厳格な師としての態度とは、もうひとつ噛み合わない。食なり焼肉なりのポジションがどうも曖昧なのは、トラオ(ARATA)がタツジとの焼肉対決を放棄するシーンにも感じたこと。いや、母直伝の、兄弟しか知らない味を互いに出し合ったことで、「誰と、何度食べたかが大事」という家族関係がここで現れ、味で闘うことなど無意味化したのだという筋書きくらいはこちらも分かる。だがそれを観客に実感させるには、母子が何度も食事を共にしたことを理解させる演出がどこかで予め為されている必要があった。
また、三品で対決する中で、二品まではタツジが劣勢だったからこそ、たとえ三品目でトラオが焼き加減をわざと誤ろうとも、目でなく、音で焼き加減を判断せよという師の教えを体得したタツジの成長は、最後の勝負の決め手として意義があったのだということも分かる。しかし、若い夫婦が何度も挑戦してくるのをその度に負かせ続けてきた韓老人の、勝負の厳格さや味へのこだわりは、それを継承した筈のタツジが、トラオの勝負放棄という行為によって勝つということにより、多分に曖昧にされてしまった。それ故に、勝負シーンに生じて然るべきドラマが失われてしまったのだ。
ムッシュかまやつ演じる謎の中国人の善人ぶりも、その片言の台詞回しと相俟って、その人のよさが却って何だか胡散臭い。彼が田口トモロヲを恐喝することで、誘拐されていたヨリ(山田優)がタツジの助手として現れることが出来たのだろうけれど、演出が淡々としすぎていて、その辺りのドラマ性がまるで見えてこない。テレビ局の廊下に座って待っているヨリの姿が画面に現れたときに、そこに何らインパクトを感じることが出来ない。山田優の、勝気な気丈さと母性的な優しさとを交互に繰り出すキャラ造形はなかなか良かったのだが。
倍賞美津子の存在意義も何だったのか不明だし、彼女の店が田口らに乗り込まれたことに何の意味があったのかも分からない。田口らは、乗っ取りに入ったら必ず暴力と札束で事を成就してきたのであり、倍賞が店を失わなかったのは何故なのかが分からない。実はこの映画、地上波の放送で観たのだが、CMの分を加算しても放送時間的にノーカットで然るべき長さの筈なのに、倍賞があまりに不条理なので、何かのシーンが抜けているのかと思った。が、ネットで検索したら他の人も同様の疑問を抱いている様子。原作小説には何か書いてあるのかも知れないが、知ったことではない。
韓老人の死のシーンでの、皆が彼の死という出来事を呑み込むまで時が停止したような長回しや(肉が焼ける音と煙による時間の経過感)、トラオが助手として矢沢心を指名するシーンでの彼女の突っぱねるようなクールさなど、所々に面白い箇所もあったのだが。地上げに同行したトラオの、「才能が欠けているのは罪じゃない。むしろ神の罪と言うべきなのかも知れない。だけど才能が欠けていることに無知なのは罪悪だ」といったような台詞、非常に説得力があるとさえ感じたのだが、こうした台詞を吐かせた当の監督自身にそのまま跳ね返ってしまいそうな出来の作品なのが皮肉。
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