[コメント] いつも2人で(1967/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
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30数年ぶりに再鑑賞。まさかこんな映画がスクリーンで観られるとは。「午前十時の映画祭」に感謝。
オードリー30代後半の作品で、初めての「母親役」「中年役」なんじゃないかな?つまり、世間が求める「オードリー・ヘプバーン像」じゃないんですよね。実際、実年齢に近いシーンは魅力的ではあるのですが、回想シーンの若く可憐な時期(=世間が求めるイメージ)は、無理が見え隠れします。有体に言ってしまえば、オードリーの旬が過ぎたことを如実に感じさせる作品でもあるわけです。実は私、久々にこの映画を観て泣いちゃったんだけど、それもあったのかもしれません。実際、彼女は、この映画と同年の『暗くなるまで待って』をもって、一度引退するんですよね。
私はこの映画を「あんなに愛し合ったのに系映画」の元祖と呼んでいて、当時は珍しかったと思うんです。でもこれが今日の、『ちょっと思い出しただけ』とか『花束みたいな恋をした』に繋がっていくんだろうと思うのです。『ブルーバレンタイン』とか『ふたりの5つの分かれ路』とかもこの系譜だと思っているんですが、いずれも2000年以降なんですよ。 男女の恋愛物語は「成就するか否か」という「恋愛の成長過程」の物語が王道ですが、2000年以降はそれが「成熟しきった」果ての時代なんじゃないかと思うんです。『いつも2人で』 は早すぎたんだ。世間の求めるオードリー像でもなければ、世間が観たい物語でもなかった。
正直、「壊れていく過程」なんて見せられても面白くないんですよ。 それを2020年代の邦画は「ノスタルジー」として甘い料理に仕上げましたが、欧米は「男と女の現実」の苦い薬として捉えている節があります。
あと、今回改めて気づいたのですが、この映画は、2人が成功して豊かになったが故に別れの危機が訪れるんです。貧しかったけど「若かったあの頃なにも怖くなかった」「小さな石鹸カタカタ鳴った」というわけです。ところが最近の邦画、『ちょっと思い出しただけ』も『花束みたいな恋をした』も、成功もしないし豊かにもなれないんですね。むしろ、社会に飲まれて、疲弊して、別れていくんです。自己憐憫の塊みたいな『ボクたちはみんな大人になれなかった』なんか典型例で、「どうしてどうして僕たちは出会ってしまったんだろう」ではなく、どうして僕たちはこんなに可愛そうなんだろう?の物語になってしまっている。 これが、いまの日本の現実。
もう一つ『いつも2人で』で今回の発見。ヌーヴェル・ヴァーグの影響を受けているようにも思うんです。早回しのシーンでハタと気づいたんですが、時間軸をバラバラにした構成なんかもそうなんじゃないかな?と。そこでさらにハタと気づいたんですが、この映画の前年の作品、クロード・ルルーシュ『男と女』を意識してるんじゃないか?
あと、意外に「台詞劇」なんですよね。でも、スタンリー・ドーネンらしいウィットと、「常に移動している」から、あまり「台詞処理」に感じない。日焼けのシーンと土管のシーンなんか最高じゃない?その「常に移動している」件ですが、自動車(ヒッチハイク→中古車→高級車と、成功とともに変化している)ばかりでなく、船や飛行機も(もちろん徒歩も)登場します。これは、ロマンチック・コメディの元祖、フランク・キャプラの『或る夜の出来事』なんじゃないかなあ?
(2022.05.02 TOHOシネマズ日本橋にて再鑑賞)
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