[コメント] 許されざる者(1960/米)
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ジョン・フォードの『捜索者』の逆パターン。レイチェルが可愛がっていた白馬が盗まれるのは、「白」人の共同体の崩壊の予兆か。鳥を怖がるこの馬に、レイチェルが「人と同じよ。ただ飛ぶだけよ」と言って笑顔を向ける場面は、後から振り返ると切ない。エンディングで、青空を行く鳥の群れが映し出されていたのも、その辺の含意があっての事だろう。
砂嵐の中を、何やら妄言を吐きながら馬で走り回る謎の老人や、ベンが男達をかき集めて編成した大捜索隊の小さな影を俯瞰で捉えたショット、対岸で魔除けの音楽を鳴らす原住民に対抗してピアノを弾く母(リリアン・ギッシュ)など、画がいい。このピアノが容赦なく破壊される場面の悲劇性、哀感。
画と言えば、キャサリン役オードリー・ヘップバーンの、健康的で奔放でいながら、清楚さが微塵も崩れない美しさ。馬上でのスカートの広がり。自分の素性を知った彼女が、額に原住民風に黒い線を引く悲愴感。
兄のベンが雇った原住民の青年が、キャサリンも含めた皆が見守る中、荒馬を鎮める場面での、「お前はなんて綺麗なんだ」「そっとするから怖がるな。痛いのは最初だけだ」という台詞、この馬に乗って彼が柵の中を回るショットでレイチェルの姿を画に入れている事、「髪にゴミが」と言って彼女の髪に触れる仕種など、表立ってエロティックに描かれていないのが却って倒錯的。
一方、その彼女に求婚した若い男は、レイチェルの「ハンサムだもの」という言葉がどんな観客にも空々しく聞こえるような、一目見て分かるダメ男。彼の求婚をレイチェルが受け入れた時点で、「ああ、こいつはカイオア族に殺されるな…」と思った通りに、その背に矢が。レイチェルが、こんな男に平気でキスをする事、ベンに「夫を探さなくちゃ」と気軽に言う態度は、性的奔放さよりも、むしろそうした事に鈍感な清純さが際立つ。
終盤の闘いは単なるアクション場面の域に留まらず、文字通りの「家」の崩壊と、それを最後まで持ち堪えようとする家族の闘いでもある。
確かに原住民があまりに簡単に殺されすぎだという印象はあるが、最も好戦的と言えるベンが、最も彼らの習俗を理解している人物であり、原住民の青年を、差別意識なく雇う男でもある事を考え合わせると、もうこれは、彼の理不尽とも思える情念の物語だとも言えるだろう。彼が、自ら去ろうとするレイチェルを留める為に、交渉に来たらしい原住民を容赦なく殺してみせるのも、「家族」の絆の為にしているのか、それとも、レイチェルに対する半ば近親相姦的な愛情からなのか、判然としない。レイチェルに寄せるベンの愛は、家族を繋ぎとめつつ同時に崩壊させてもいるように見える。
この映画は、そうした倒錯性を味わう作品なのだと思って観ていたので、やけに普通に爽やかな幕切れには、画竜点睛を欠く印象を受ける。そもそも、この物語の倒錯性に監督自身が気づいていないような調子で演出されている観があるのだが、その辺はオードリーとベン役バート・ランカスターが、隠微さなど受けつけないような真っ当さで顔面を覆い尽くしている役者だからなのかも知れない。
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