[コメント] 包帯クラブ(2007/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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映画としての完成度はそれほど高くないが、とてもいい話だと思う。
映画として・・・というのは、テレビでは優秀な演出家である堤幸彦演出は、映画では少々せわしない。ナレーション処理と併せて少しうるさい。オフザケの中で見せる一瞬のマジの切れ味は鋭いが、オフザケなしの映画では「止め絵」「止め音」の多用で安易に見える。最終的には画面(えづら)ではなく台詞(ナレーション含む)処理が多い。 これらを総称して「テレビ的」と言ってしまってもいいのだが、多くのテレビ出身演出家よりはるかに優れた演出をするので、言葉を尽くして悪口を書いた。悪口かよ。 実際、「この人はいつも空を見上げて歩いてるんじゃないか?」と思うほど、空を切り取る画面が巧い。
しかし、話はとても良い話で、私は早々に泣きだしてから終始ウルウルしながら観ていた。
今年は『あしたの私の作り方』という映画もあり、その両方を観て、映画に於ける現代若者像に少し変化が生れてきたように感じている。
『八月の濡れた砂』(1971年)の時代、若者達の(得体の知れない)内なる衝動は社会に向けられ、反社会的、反体制的行動となって現れた。それは60年代安保闘争の時代のような明確な目的や組織行動ではなく、目的の見えない個人の『大人は分かってくれない』的な焦燥だったような気がする。 やがてそのニキビのような若者の衝動の吹き出し口は矮小化し、校内暴力や家庭内暴力へと向かったのだろう。 そうした行動は、クレアラシルがニキビを予防するようにしだいに表面上きれいになっていく。だが、若者の衝動自体が消えたわけではなく、表面化しない陰湿ないじめという形に変遷し、今日に至っているのかもしれない。
その状態の少し先が『あしたの私の作り方』で、『包帯クラブ』はさらにもう一歩先に進んでいる気がする。 本作の中で「どうせ大学出ても結婚してパートでスーパーで働くんだから、高卒でスーパーに就職しても同じ」といった内容の台詞が出てくる。『あしたの私の作り方』も同様だが、社会に対する圧倒的な絶望感の中で“生きる術”を見いだそうとする若者が描かれる。 おそらく、その社会に対する絶望感を割り切れない(生きる術を見いだせない)者が、「何だか苛立って」(肉体的、精神的に)他人を攻撃し、傷つけるのだろう(精神的な攻撃の代表例はこの映画のテンポである)。
そして2つの映画に共通しているのは、(『あしたの私の作り方』はおぼろげながら、『包帯クラブ』ではやや明確に)「世の中このままじゃいけない」「何か行動しなきゃ」と若者達が思い始めている点にある。
実際の若者達が本当にそう思っているのか、あくまで制作者側の願いなのか、それは私には分からない。 だが、例え一時のブームやファッションだったにせよ、ホワイトバンドの流行など、そうした大きなうねりの予兆は実際にあるのかもしれない。少なくとも、映画に描かれる若者像は変化している。そんないろんなことを考えさせられる映画だった。
ラストは蛇足のような気も少しするが、せめて映画の中だけでも「世の中を変えられるかもしれない」という夢を見せてもいいだろう。
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