[コメント] めがね(2007/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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眼鏡をかけている、というだけで既にハマダのメンツに同調させられているかのような状況にさっそく投げ込まれるタエコ(小林聡美) 。自然体ながらも押しつけがましい共同体意識から逃れようと、一人でいようとしても、それすら「たそがれる」というカテゴリーに取り込まれる。そもそも人がハマダに来る目的は「たそがれる」ことにあるとさえ言われてしまう。そんな空間に於いて、タエコが私的な時間を送れるのは、眠っている時間だけ。寝床のタエコが眼鏡を外しているのはその表れだ。だが朝になればサクラ(もたいまさこ)がさっそく布団の傍から「朝です」と微笑みかける。そんな雰囲気に耐えかねていたタエコも、いつしかサクラが朝いないことに虚をつかれたかのような様子を見せるようになる。幾つかの経緯を経て完全にハマダに取り込まれてしまったタエコが、去り際に車の窓から眼鏡を落としてしまうのも、眼鏡とハマダの固い結びつきを証しする。ラストシーンで彼女が新しい眼鏡を着けているのは、自身の意思で改めて眼鏡をかける、つまりハマダを自らの意思で選択したことの暗喩だろう。
眼鏡以外にも、様々な細部に於いて、ハマダの罠が仕掛けられている。到着早々、皆で食事をとりますと当然のように告げるユージ(光石研)の誘いを断ったタエコは、彼が「中のものを適当に食べていて下さい」と言い残して行った冷蔵庫を開いて、目玉の無い魚に遭遇する。この、何やら呪いのような魚は、後にハルナ(市川実日子)がサクラに、まな板の上の黒い魚を前に「人は死んだらどうなるんでしょう」と問う場面に繋がっているように思えるのだが、もう一つ、目の無い魚が赤い色をしていたことも印象に残る。この「赤」は、ハマダの面々で一緒に食べるエビの赤さや、タエコが編み物をする糸の赤、そして最後にハマダに帰ってきたタエコの新しい眼鏡のフレームの赤と、服の模様の赤という形で、赤の連鎖が見てとれる。
また、あの「マリン・バレス」。一方的にコミュニティ意識を押しつけてくるというハマダの不気味さが、露悪的に顕在化したようなマリン・パレスが、ハマダに耐え切れずに出て行ったタエコの前に現れる。このことで、ハマダは少なくとも、マリン・パレス的勤労精神に律せられていない分マシであるかに感じられてくる。このマリン・パレスの存在もまた、ハマダの巧妙かつ壮大な罠に思えてくるほどだ。
マリン・パレスからすぐに出て行ったタエコは、ハマダで朝食を拒んだせいで疲労感に苛まれた上、迎えに来たサクラの自転車の後部座席に乗るために、トランクを放棄することを余儀なくされる。このトランクは、ハマダの外の空間との連続性の象徴であり、中身について訊かれたタエコの「読みかけの本とか」という答えも、「読みかけ」という形で、ハマダ以前の時間との連続性を示唆する。これに対しても、やはりハマダでは「ここでは読めないでしょう」などと否定的な言われようが為される。更には、サクラの自転車の後ろに乗ったという事実が、ハマダで奇妙なまでに大げさに扱われてしまうのだ。
サクラは、かき氷を食べさせるとか、自転車に乗せるとか、メルシー体操に参加させるといった形で、身体的にハマダにタエコを取り込んでいく重要な存在であり、殆ど妖怪じみている。決して無理強いせず、自然に参加するよう誘導する辺りが凄まじい。タエコがかき氷を遂に口にするシーンでは、後からやって来たユージとハルナが「ずるい」と言って参加してくる。この「ずるい」の一言には、「皆一緒が当たり前」という恐ろしい大前提が垣間見えるのだ。「物を食べる」ことを通して異界に取り込むという点では、『千と千尋の神隠し』を連想させられてしまうくらいだ。
更には、このかき氷に対しては、金を払うという、或る意味よそよそしいとも言える合理的な慣習は通用せず、それぞれの人間が自分なりの返礼をしなければならない。結果、何の目的も無くタエコがしていた編み物が、サクラへの贈り物という目的を与えられる。こうして、タエコの私的な時間さえもが、完全にハマダに取り込まれるのだ。
そもそも、ユージの何ともフィーリング的な説明による地図で迷わずハマダにやって来ること自体が、ハマダに適合しているという前提も、タエコの意思に関わりない所で、タエコの性格とハマダが結合されてしまっており、最初からあまりに巧妙。ハマダを訪れる以前のタエコが既にハマダ的であったという、ハマダの侵略の、恐るべき徹底性。
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