[コメント] 長江哀歌(2006/中国)
映画を見終った人むけのレビューです。
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遠くで、ブロック模型のような建物がロケット噴射で浮上したり、ビルが轟音を響かせて倒れたり、綱渡りをする人影が、宙を歩いているように見えたりと、遠くで何かが起こっている。或いは、多くの場面で、何かが起こる、ということが、遠さ、距離として表れる。紙幣に刷られた故郷の風景。ようやく写真で初めて見ることが出来た、成長した娘の姿。そして、会いたい人に会う為には、船を待たねばならないという、空間的な隔たりの、時間の隔たりとしての表れ。
目の前にいる者と、互いの携帯電話にかけ合って着信音を聞かせ合う場面もあれば、携帯への着信だけの繋がりになっていた夫婦や、妻に電話しようとしても番号が変わっていて連絡できない男もいる。時折挿入される、「煙草」「酒」「茶」「飴」といった文字だけが、人が互いに顔を見合わせて共有する時空間を暗示している。その断絶、喪失も含めて。
この映画には、主人公と呼び得る人物が二人いるが、互いに何の接点も持たないままだ。唯一の接点と言えるのは、長江だけであり、この大河は、人が触れ合いながらも断絶し、隔たり合いながらもその隔たりそのものを共有し合うという、その「距離」そのものなのだ。音響的にこの河に相当するのが、おそらくはスピーカーから頻繁に流れる大音響だろう。その音声は、あらゆる人に語りかけており、つまりは誰にも語りかけていないのだ。
二人の主人公は、長く会っていなかった配偶者に再会するが、片や十六年間音信無しであった男、片や二年間夫と離れていた女。前者は、妻と向かい合いながら、長い間を置きつつポツリ、ポツリと言葉を交わす。後者は、一目夫の顔を確認したら、すぐさまその場を立ち去ろうとし、呼び止められてようやく会話を交わした段になれば、「他に好きな人が出来た」と離婚を宣告する。二人共、家族との距離を抱えているが、彼ら自身の年齢や、積み重ねてきた歳月には歴然とした違いがあり、距離同士がまた一つの距離を含んでいる(自分を頼ってきた若者への態度も対照的)。純然たる「距離」の映画。
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