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[コメント] ヒトラーの贋札(2007/オーストリア=独)

本作の事を調べてたら、原作者のブルガーはサボタージュを主張し続けていたディールのこと。ちょっと格好良く描き過ぎてる気がするんですが…これって自画自賛?
甘崎庵

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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 このような作戦が実際に行われていたことは本作で初めて知ったが、なるほど戦争中にはあって然りの作戦だし、舞台がドイツだけにその作戦にユダヤ人を用いると言うのも説得力がある。歴史の裏側を見せてもらった感じである。

 しかし本作の場合は、そう言った歴史的事項や起こった事実よりも、主人公のサリーの心の動きが重要だろう。

 彼はユダヤ人だが、名前を本来のソロモンではなく、“サリー”と言っていることから、当初ユダヤ人としてのアイデンティティを失っている人物として描かれている。行動もドイツ人と何ら変わりないし、ユダヤ人以外の異邦人と寝ることもまったく頓着しない。実際ユダヤと言う国はこの時点ではなく、「俺はユダヤ人だ」と主張すること自体がほとんどの場合マイナスでしかないのだし、本人も自分の生まれを恥じているようなところがあった。

 そんな彼だから、収容所に送られても、ほかのユダヤ人が飢えることを承知で平気でドイツ人に取り入って、自分だけは結構な生活をしていても何の心に負い目を持っていない。

 それが変わってきたのはベルンハイト作戦を通して。

 彼の性格は変わらず、自分が快適な暮らしが出来るよう取り図ろうとするが(ヘルツォークの隠した贋札の隠し場所をしっかりチェックしてたりもする)、作戦で芽生えた仲間意識が入ってきたため、自分だけでなく作戦に従事している全員の事を要求するようになった。これは一人よがりでは何事も立ちゆかないための妥協とも考えられるが、そこで仲間の死や、そこでユダヤ人のアイデンティティに固執する仲間との出会いが少しずつ彼を変えていく。

 収容所の中で死にかけた仲間をかばうのはその短的な例だろう。

 だが真の意味で彼が自分がユダヤ人であることを認識したのは皮肉なことに収容所から出された時のこと。これまでと同じ生活が出来なくなった自分を発見してのことだった。  自分自身が何者であるのか。それを知ることが人生の目的とするならば、サリーは現実を通してそれを見つけることが出来た。その人間的成長を描くことが本作の重要な点だったのかもしれない。これまたユダヤ人収容所を描いた『シンドラーのリスト』のシンドラーに通じるものがここにはある。本作は歴史的事実を通して人間の成長を描いた作品として考えるべきだろう。

(評価:★4)

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