[コメント] ダージリン急行(2007/米)
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いい加減な鷹揚さと絶対的厳しさが共存する「インド」で展開する天の邪鬼達の縮図人生。遺品(特にサングラス)に込めた寓意。ノア・ボームバック の不在が響いたか、そつがなさ過ぎて爆発力には欠けるが、修理工場のシークエンスは文句なしに感動的。
一貫して「走る」というアクションに寓意を傾注する。とにかく走る。走っても追いつけないとき、故障したままの車を押して走るとき滲む切なさ。「乗り遅れてはならない」とい う切迫感が「父母恋し」と重なり、遺品の山を放り捨てて兄弟が疾走するとき、「ああ、アンダーソンはやっぱりウエットでいい奴だ」「走る姿が美しい映画っていい映画だよな」と思う。
父の不在から始まる物語は、「父達」が家庭を再生しようと企図しながら解体し、そのことによって家庭を「修復」させてきたアンダーソンとしては珍しいと思いきや、オーウェン・ウィルソンに「父と母」を憑依させるあたり、半ば「父母の呪いと解呪」をテーマにしているとも言えそうだ。
いわば血縁とは「呪い」のようなもので、「愛しい呪い」とは誰が言ったのか忘れたが、言い得て妙だと思う。あればあったで煩わしく、なければないで孤独だ。「他人」と「友人」と「家族」を隔てる壁も存在しないよう で、ふとした瞬間に強固な輪郭をもって立ち現れる(兄弟達は外見上どう見ても他人にしか見えないが、彼らがあまりに似ていることは劇中で明かされ ることだ)。それにより傷ついたり、救われたりする。しかし、それに囚われすぎると、それは「呪い」として変質する。「遺品」の重さが呪いのよう に兄弟を苛む。
断絶でもなく呪いに縛られたままでもなく、捨てるべき過去は捨てつつ父母の不在を受け入れて前に進む姿勢は、遺品の破棄と母の失踪の肯定ににじむ。「不在を受け入れたまま自立して自分の足で走る」。アンダーソンも同時に少しオトナになったということなのか。
毎度アンダーソンはキャストに「我慢」の表情を要求する。「傷」を隠すのに必死である。長男が痛み止め、次男が頭痛薬、三男が咳止めシロップ。 「いたみ」をとめたくて仕方ないのだ。手慣れたオーウェン・ウィルソンの包帯、眠そうな(寂しそうな)瞳を父のサングラスで隠すエイドリア ン・ブロディ、甘えん坊丸出しの風貌を口ヒゲで隠すジェイソン・シュワルツマンのキャスティングは会心。修理工場シークエンスとの風貌の違 いに注意。天の邪鬼なこども達が囲むキャンプファイアが滑稽かつ可愛らしく、あたたかい。
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