[コメント] イースタン・プロミス(2007/英=カナダ=米)
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前作『ヒストリー・オブ・バイオレンス』では「家族」という「続く血」の中に暴力を内包しつつ進む世界への詠嘆について描くことを目指していたように思われる。暴力の血は隠されてはいるが、暴力に満ちた世界に包囲される中でその血は目覚めてしまう。「あっち側」と「こっち側」の境界線は消え去り、やがて暴力は「継がれるもの」として世界に氾濫する。血縁と暴力の関係性へのこだわりは前作から見られたものだ。
本作では一歩進んで、セミオンのレストランで一同に会する一族、始末屋アジムとその息子、父セミオンと子キリル、セミオンの強姦によって生まれたクリスティーヌ、その「続く血を断つこと」「血を残すこと」という描写が散見される。モーテンセンの直接的な手によるものばかりではないにしろ、殺すことによって(もしくは死ぬことによって)断たれた血、生かされることによって残される血(「クリスティーナ」)。そしてそれらは父も母もあらゆるつながりを否定し、暴力という十字架を負って立つニコライによって果たされる。死の天使の所業である。
サウナの殺し合いでは一瞬笑わせようとしているのかと思ってしまったが、これは間違いで、肉体に刻まれた十字架や星印を血まみれにしながらのたうち回るニコライの生身に禍々しい聖性を見るべきだろう。偽装とはいえ次第に偽装とも言えぬ領域に踏み込み、王を目指すニコライ。暴力の王となって事を終わらせること。「ファミリー」に迎えられ、暴力と罪の無数の烙印、そして十字架の入れ墨を同時に体に刻む半裸のニコライのショットには抗いがたい魅力がある。入れ墨を入れるシーンは必見と言ってもいい。何もかもを負って立ち、あらゆる価値を超越し、善や悪といった言葉を退屈の彼方へ追いやる異形は、まさに価値の錯綜する現代にふさわしい。
そしてそもそも血のつながりのないアンナと「クリスティーヌ」を「つなげること」。個人的には被害者である少女と「クリスティーヌ」が臍帯でつながったショットが印象的だった。更に、アンナとその交際者(黒人であったことが示唆される)の間の「つながらなかった血」(流産したことが示唆される)。
また、ホモセクシャルのモチーフが散りばめられているが、それは血のつながりを生むものではなく、「血」によって立つ世界に対して全く背を向けたものである。娼婦とのセックスをニコライに強いるキリルが、その遂行を「ファミリー加入」の「テスト」としている場面なども意味深だったりする。
「血」とはまた「地縁」としてあらわれたり、「人種」という歪曲された「イデオロギー」としてもあらわれる。そういった要素を含めた「血のにおい」が本作には充満している。ニコライはどんな血を継ぎ、断つのか。醜いようで美しく、美しいようで醜い、危険な物語である。
寓意めいたことはあまり深く考えるべきでないかも知れない。クロ−ネンバーグには社会派として在ろうという気もさらさらないと思う。しかし種々の設定が世界にかなりの深みを与えており、単なるパニッシャーもの、マフィアものとは一線を画した水準に達している。提示された状況に結論がある必要は必ずしも無い。観る者が決めれば良いだけの話だ。
モーテンセンの希有に恵まれた風貌・演技、隙のない撮影と役者陣、そしていつもながら完璧な仕事をするショアの寒々しく鋭い楽曲が作品を支えていることは言うまでも無い。
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