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[コメント] 落下の王国(2006/インド=米=英)

脚本の空疎さをシュール&ビューティの極致で埋めた力業『ザ・セル』とは逆に、映画としての結構を保つシーンの数々を、幻想シーンの陳腐さが砂漠の蟻地獄のように呑み込む悲惨。この作品がイメージとして示した映画観は素晴らしいだけに、何とも惜しい。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







オープニング・シーンは、その計算された構図のみならず、スローモーションによって時間までもが緻密化され、息を凝らしたような緊張感に充ち、全く素晴らしい。だがこの演出力が、肝心の幻想シークェンスにまるで活かされていないのはどういうことか。

幻想シーンでCGを使用していないというのが売り文句の一つだったが、それは物語の舞台である時代にはCGがなかったことを踏まえての選択だったのかもしれない。「物語る力」と「映画の力」が等号で結ばれているこの作品にあっては妥当な選択だったとは思うが、それなら、アナログな手法でこそ為し得る驚異をもっともっと見せなければ全くの無意味。風景がそのまま司祭の顔のクローズアップと重なる演出なども、あからさまにサルバドール・ダリのダブル・イメージの引用でしかなく、驚きに繋がらない。『ザ・セル』の馬の輪切りもデミアン・ハーストの美術作品そのままだが、これはCGで動かした分だけは面白かったのだ。

「映画」への目配せは、アレクサンドリアがドアノブの鍵穴から射し込む光によって壁に反転映像を見るカメラ・オブスキュラな場面からも感じられる。このドアが開いて強烈な日光が入ってくる画も、ラスト・シークェンスでの映写機の光の射し込みとの類似を感じさせる。

ラストでの、モノクロ映像によるスラップスティック・コメディの畳みかけは、単に過去の映画へのオマージュというに留まらず、その映像たちの中にロイの姿を見出し続けるアレクサンドリアの語りによって、ロイと彼女が空想の中で駆け巡った幻影の世界が、映画という媒体に投影され、置き換えられることによる感動がある。退院し、ロイと別れたアレクサンドリアだが、スクリーンの上で彼と何度も、永遠に、再会し続けていたのだ。ロイの表情を捉えたカットが何度も繰り返される。一回性の出来事を永遠に留める、映画の奇蹟。オープニングの緩慢な映像の流れとは対照的な、チョコマカと素早く映りゆく映像の数々。オープニングとエンディングのモノクロ映像の美しさは、本来は取り戻すことも動かすことも出来ない「時間」が、人間の精神のテンポに歩調を合わせるということの悦びを痛切に感じさせるところにある。そして、失われた時間を求めること、映画の本質そのものとしてのノスタルジー。

ロイはアレクサンドリアに対しては殆ど嘘しか話していないのだが、全くの虚構として話していたお伽話に、図らずも彼の真情が表れていくという転倒は、まさに「虚構」としての「映画」を肯定する力ともなっている。このお伽話に、アレクサンドリアによる茶々が入るのも、彼女の父の思い出とロイの失恋とがお伽話の中に溶け込んでいくという、現実と虚構の地続き感を用意する上での必然だった。

ただ、この作品そのものを一個の「映画」として肯定するには、どうも断片的なアイデアの閃きに寸断されすぎているように思える。終盤に至るまで、お伽話は本当にただの思いつきで月並みなお話の域を出ていず、また先述したように、映像としてもあまりに「驚き」に欠けている。登場人物も奇抜にすぎて感情移入がし難く、次々と傷つき死んでいく彼らの中で僕が哀惜を感じたのは、ダーウィンの猿だけだった。

「映画」とは、単独の画としては殆ど無力でしかない映像が、他の映像との間に張り巡らす不可視のネットワークによって、時には信じ難いほどの強度を示す点にこそ本領がある――と、『グラン・トリノ』のエンドロールの画に打ちのめされながら確信した僕としては、本作のように背骨の抜けた映画に於いて、個々に優れた画を見つけたとしても、一個の作品としてその全体を肯定する気にはなれない。それは、一つの楽曲の中に気に入った音色を見つけたからといって、作品全体を肯定するかどうかとは別問題であるのと同じことだ。ターセムが示した映画観への感動も、作品そのものとはどこか遊離した観念的な所での感動に留まってしまう。

(評価:★2)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)ぽんしゅう[*] 赤い戦車[*]

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