[コメント] ファニーゲーム U.S.A.(2007/米=仏=英=オーストリア=独=伊)
映画を見終った人むけのレビューです。
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凶行は、フレーム外で行なわれる。ファーバー一家の飼い犬の殺害は、吠え続けていたその鳴き声が急に途絶えることで暗示され、アンの隣りに座らされたジョージがナイフでいたぶられる場面に於いても、暴力は音で表現され、視覚的には、傍で行なわれる凶行に怯えるアンの表情だけを捉える。息子が射殺される場面も、犯人の一方がキッチンで食事の準備をしているカットに、騒然とした物音と声が聞こえるという形をとっている。
また、この息子の死体にしても、部屋の闇に隠されているし、それに先立つシーンでも、息子が逃げ込んだ知人宅で発見した、知り合いの女の子の死体は、ドアの陰に隠れている。アンが飼い犬の死体を見つける場面も、かなり退きのショットで撮られていた。
このように、劇中の暴力は、視覚的にはただ示唆されるだけであり、観客の想像力に多くが委ねられていたと言える。犯人の一人であるポールが時折り観客に向けて話しかけてくるのも、上述したような、画面の外、或いは画面の奥の暴力を想像することを強いられる観客の存在を意識した演出の一環だ。
暴力が、我々観客の脳内にこそ存在させられるということ。この映画を観ている間、最もおぞましい気分にさせられたのは、逆説的にも、事が起こる前の、平穏なファーバー一家の様子だった。この平穏さが、これから何らかの暴力によって蹂躙されるであろうことへの予感は、実際に何がどのように起こるのか分からない不安によって、より恐ろしいものになる。別荘に入った一家を犬が迎える光景こそが、最も痛ましい。
暴力そのものより、序盤での、卵を巡る遣り取りにこそ緊張感が漲っている。友好関係が、微妙な齟齬によって少しずつ亀裂を起こしていくことの恐怖。例えば、アンが卵を冷蔵庫から取り出す様子を追っていたカメラが、アンの動きに沿って元の位置に戻ると、フレーム外に置かれていた間にピーターが、アンに接近していることの、小さくも鋭い衝撃。
ピーターとポールは、丁寧で礼儀正しい態度を保ちながらも、巧みにアンとジョージの反撥や怒りを触発していく。そう、この犯人二人は、最初から暴力的に介入してくるのではなく、むしろ被害者側の暴力性をまず引き出す、という手法で侵入してくるのだ。冒頭の、ファーバー一家が別荘に入った後、まとわりつく飼い犬を三人ともが邪険にすることと、この犬が犯人二人の最初の被害者となることは、犯人と被害者の、人間的な本性に於ける一致を示していたのではないか。
ポールとピーターの白い服と、室内の白い内装。白さ、清潔さの暴力性。また、ラスト・シークェンスでの、青ざめた薄暗い画面の中の、レインコートの明るい黄色も禍々しい。序盤で短いカットが捉えていた、置きっぱなしにされたナイフが、逆襲への伏線を匂わせながらも犯人二人にあっさり奪われる場面は、映画の物語文法を嘲笑っている。尤も、犯人二人が虚構と現実について議論する台詞の遣り取りは、正直なところ陳腐に思える。
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