コメンテータ
ランキング
HELP

[コメント] その男ヴァン・ダム(2008/ベルギー=ルクセンブルク=仏)

ヴァン・ダムにもらい泣きしながら、「ヴァン・ダムにもらい泣きしている」という事実に、なぜか強烈なガッカリを覚えてしまう。 劇場鑑賞
ねこすけ

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







これをして「新境地開拓」なぞというのは、それ自体が極めて皮肉でしかない。映画スター、ヴァン・ダムの栄光と没落を演じる生の人間ヴァン・ダムを演じる役者ヴァン・ダム、という二重、三重の構造をもった本作品は、言ってみれば、それ以上先を持たない映画でしかない。つまり、「元スター・を・演じる今のヴァン・ダム・を・演じる今のヴァン・ダム」に対して、このまとまりを演じる次なる「ヴァン・ダム」は存在しえないのである。「元スター・を・演じる〜・ヴァン・ダム」を演じるヴァン・ダムはもはや存在しえない。その意味で、これは何も開拓していない。ただ当り前の「俳優である以前に人間である」という事実を“演じた”だけでしかない。

勿論、それを映画にした、というだけならば何の問題もない。ただの一種のセルフ・パロディ作品として流して笑い飛ばしてしまえばいい。だが、問題なのは、この映画で、あるいはヴァン・ダムが背負っているのが90年代の筋肉映画であるという事実だ。劇中で若干の言及があるように、ハリウッド製の筋肉映画はかつての輝きを失い、文化的な中心性を失って今日に至っている。

そのかつての中心人物が、「人間」にならなければならない現実。スクリーンの中のマッチョなヒーローが格好良くフィナーレを飾ることが「フィクション」であるオチ。それらの物語が象徴しているのは、「新境地の開拓」ではなく、単なる「終わり」でしかない。勿論、この映画はそれを単にシニカルに描くことに主眼が置かれているのだろうから、それはそれとして肯定できる。だが、シニカルに描けば描くほどそれは「新たな道」でも「希望」でもなく、ただ一重に「あんたはもう終わった、筋肉俳優から人間に戻れ」と示しているだけのようにしか見えない。だから、最後の一筋の(人間的な)希望は、単なるヴァン・ダムへの死亡宣告でしかない。

スタローンは、『ロッキー』や『ランボー』を通じて、彼らに時代的な死亡宣告を“物語として”下すことによって、ひとつの「物語」を終わらせた。彼は、最後まで(まだ終わってねぇけど)「役者」であり続けた。だが、ヴァン・ダムは(彼の代表作が・・・正直言ってみつからないことからもわかるように)ただ、「役者」から「人間」になるしかなかった。セガールのように切るべきポニー・テールも無い。(「蹴り」という代名詞も一応あるけれど)

スタローンは「筋肉映画」という一時代を築いた「物語」に何らかの終止符を打つことを積極的に行った。しかし、この映画は、「筋肉映画」という一時代そのものを「人間」の段階に葬り去ることで、意図せずにその「終焉」と「浅はかさ」を明らかにしている。

(評価:★3)

投票

このコメントを気に入った人達 (4 人)DSCH[*] Bunge 山ちゃん 煽尼采

コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。