[コメント] 劔岳 点の記(2008/日)
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美しい構図で切り取られた風景を人が横切って行く、あるいは人が配置されている、といった場面が多い。こういう画を見るとカメラマン的な意図というものを強く感じる。それは、脚本からその場面で表現されるべき心象や事象を読み解き、それが最も効果的に伝わるであろう演出プランを練り、そして「(ドラマとしての)この場面はこう撮りたい」と通常ならなるところを、監督がロケハンに訪れた時、「(場所としての)この場面はこう撮りたい」というカメラマン的な動機がそれ以上に優先されてしまうからかなと思う。それはやはりカメラマンとしての「正しさ」なのだろう。但し、そのカメラマン的な動機は、ドラマを演出する役割としての監督ということを考えた時「気が散っている」ということになるのかなと思った。
この物語が「大自然の美しさや驚異」をテーマとしているならそれでいいのだろうが、本作は地図を作る主人公・柴崎芳太郎が「なぜ自分は地図を作るのだろうか」ということをテーマとしている。少なくとも脚本ではそういっている。物語の締めくくりの台詞としてズバリその台詞が出てくるし、山岳会の男・小島烏水を副主人公的に登場させて、「純然と山に正対しようとしている自分以上の情熱で、命がけで山を登ろうとする男がなぜいるのか?」という疑問を、再三彼に言わせているのはどうしてか? それは、「軍の命令」というだけに収まらない柴崎の意志を小島が感じ取ったうえで、「地図を作りたいという動機は、純然と山を登りたいという動機を凌駕して、人を山に登らせるものなのか?」という山男ならではの憤懣であり疑問である。が、それはある側面から見ただけの話で、そもそもその場所に三角点を「押しピン」したいと思うことも、ただ天に近づきたいと思うことも、地球での己の場所を確認したいという願いにおいては同じことかも知れないという、「人が山を登ろう」と欲するさまざまな動機のありかたを新田次郎らしく探求したもの、それが本作のテーマなのではないだろうか(原作未読なので違うかも知れませんが)。
小島という男の、登山家としての誇りとそれがゆえに柴崎に対する敬意、測量部としての義務感や組織のメンツも呑みこみ、結局成果の残らない四等三角点しか打てなくとも、それでも自分がその場所を地図にとどめたいと思うのは「自分を知りたいからなのだろうか」とする柴崎の自問自答、山を登りたいという男たちを助けることで、いっしょになって登頂を成就したいと思う長次郎の密かな野望。誰もかれも女房などそっちのけでみんな「山が大好き男たち」の、そういう味わい深いドラマがそこに内包しているのに、そこへの監督の興味は美しい構図を撮ることに及ばなかった、そういう気がする。
そう考えると、同じ山に向かおうとしていても「人によって目指すものが違うのだ」、と劔岳を臨みながら、小島が述懐するのは言いえて妙だったなあ。
余談だが、ウィキによれば劔岳に三等三角点が設置されたのは、ほんの最近の2004年のことらしい。四等三角点をもとに柴崎が測量した劔岳の標高は、現代のGPS測量とほとんど誤差がなかったからなのだろうか、この際作成された「点の記」に初登場した劔岳の選定者の名義として「明治40年柴崎芳太郎」と記されたそうだ。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%B1%E5%B2%B3)
新田次郎さえ知る由もないこんな感動的なエピソードがあるのなら、この映画に盛り込んで欲しかったなあと思う。
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