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[コメント] 陽のあたる場所(1951/米)

パースペクティブな構図が劇的な強度をことさらに意識させる映画。さらにショットの叙情性をクリフトの猫背が際立たせるGOODムービー
junojuna

ショット単位の深みが際立って美しい画面と、ねらいが明け透けに手ぬるい画面が同居しつつも、その連鎖をはるかに跨ぐモンゴメリー・クリフトの危ういたたずまいが映画の情念を滾らせている稀有な存在感をもった傑作である。たしかに、作劇上の許しがたい飛躍も見受けられるが、それ以上にモンティのさまよう視線、猫背、足取り、ブカブカのツイードスーツなど、まるで捨てられた猫のように覚束ない生き様を表象した造形は、この反道徳的な物語に実に綾で複雑な感情を抱かせることに成功している。主人公の悲劇的状況、いわば存在そのものが悲劇的な性格を帯びているという前提を振り返ると、まずジョージには父親がいない。彼は青年期特有の上昇志向の表れから、父なるものを求めて、叔父が経営する工場で社会への一歩を踏み出す。彼の出世欲は、少年期に満足いく形で形成されなかった父なる存在から認められることで、自らのアイデンティティを確立しようとする。だが、彼はさらに母なる存在との正常な(と言ってしまえば多少御幣はあるが)関係を築いてはこれなかった。ここに彼の自我が崩壊することとなる二重の動因が生まれているのだ。映画で描かれるこの男子と母との異性間の関係性は、マッカーシズムが吹き荒れる50年前後往時の時代感情の中で、その負の因縁が増幅されてしまっているきらいもあるが、もとい、このジョージが幼すぎたために、彼の精神風土である甘えの基盤を再構築できず女性性に寄りかかってしまうことで悲劇が出づることとなった。この映画は若者が辿った哀れな道筋を、どこか家庭環境、ひいては社会環境に求めるような口ぶりが前時代的であると言わざるを得ないが、少なからず人間の深層心理に帰すことができる本能の獣性とでも呼ぶべきジレンマが、人物の情緒を丹念に掬い取るスティーブンスの演出を得て実にドラマティックに描かれている。これはTVドラマシリーズ『北の国から92’巣立ち編』で、吉岡秀隆演じる黒板純が同じ轍を踏んだように、人生をドラマとしてクローズアップする際に何度も繰り返される一叙事なのである。『北の国から』では黒板純が劇中、妊娠させた女の子(裕木奈江)から薦められてビデオを見るのだが、その時に画面に映っていたのがこの『陽のあたる場所』であった。古今、洋の東西を問わず、人生にまつわる通過儀礼としてかくいう問題は常に悲劇として立ち現れるのだ。しかし、モンゴメリー・クリフトの幼児性とエリザベス・テイラーの母性はうまく融け会い、映画史上に名高いデュエットとなって白眉である。エリザベス・テイラーは本作で、奔放な媚態を見せる少女性から前述のモンティを抱きかかえる母性までを逸脱なく平然と演じて見せた。決して美しいという一言だけでは片付けられない存在感は、やはり大女優の名にふさわしかった。

(評価:★4)

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