[コメント] ヴィヨンの妻 桜桃とタンポポ(2009/日)
妻は、ただ耐える分けではなく、献身的にふるまう分けでもない。「死」への恐怖と憧れに突き動かされる男(浅野忠信)に対し、妻(松たか子)は本能で反発するかのように「生」への衝動で行動を起こす。それは脆弱な理屈などではなく、倫理さえも超越するのだ。
**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。
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男の死(陰)への衝動と拮抗しうるだけのエネルギーを秘めた女の生(陽)への衝動。幼くして地獄行きを宣告されてしまった男を、この世に留まらせておくためには、倫理をも省みない生への衝動が必要なのだ。
佐知(松たか子)は、あてもなく五千円の人質となり、成りゆきで酒場で働き、自らの身をもって弁護料をまかなう。夫を守ろうとするその行動は、まるで夫の唐突さに呼応するかのように常に衝動的だ。佐知は辻(堤真一)のためにも微罪とはいえ衝動的に罪を犯し、取調べの巡査の前では懸命に自らの主張を押し通そうとする。大谷(浅野忠信)が死に取り憑かれた「陰」の男なら、佐知は生きることに対してひたすら「陽」の女なのだ。夫の心中未遂現場で薬を手にしながら「死ぬってどうゆうことかしら」と佐知はつぶやく。大谷と意を共にして「死」を選択する秋子(広末涼子)とは、正反対の女なのだ。
太宰の失意によって生み出された主人公の男の苦悩に拮抗できるのは、男と表裏をなす生への無条件の衝動を持った女である。それが、脚本家田中陽造と演出家根岸吉太郎が描いた「ヴィヨンの妻」像なのだ。冒頭近くでの、夫の不始末を知った佐知の泣き笑いは、そんな彼女の秘められた自信の噴出であり、早々の勝利宣言であったようにもみえる。松たか子は、そんな危ういパワーゲームのような夫との関係を、ときに不気味なほど無心でこなす女を見事に体現していた。
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