[コメント] 空気人形(2009/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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「・・・このカゲロウって虫なんか・・・ / 親になってから一日か二日で死んじまう / だからハラん中はイブクロも腸もただ空気がつまってるだけだ・・・ / でも生殖器だけはあるんだってさ」
手塚治虫の「やけっぱちのマリア」の一節である。マリアとはダッチワイフの名前だ。彼女は意識を持っている。主人公焼野矢八の母親への憧れの念が、エクトプラズムとして彼女に乗り移ったからである。
一方、この「空気人形」にもカゲロウの話は出てくる。ここでも、カゲロウの内臓が殆ど空っぽであるという認識に変わりはない。そして、そのどちらにおいても、カゲロウはダッチワイフを象徴する形で用いられている(カゲロウ=ダッチワイフ)。しかし、この二者間には結果的に大きな違いがある。
前者(手塚)では、カゲロウは、どのような生物にも生殖器はある、という生きた例として出されており、そこでは相対的な性のイメージの強調が図られている。また、この場合、人間は明らかにカゲロウとは異なった位置に存している。一方、後者(是枝)では、カゲロウは、現代人の心の虚無を表すために用いられており、そこではカゲロウと現代人の同化が図られている。視点を変えれば、そこには性のイメージが相対的に小さく扱われているという事が分かる。
よって、それぞれの性的な図式は以下のようになり、
手塚:人間≠カゲロウ=ダッチワイフ 是枝:人間=カゲロウ=ダッチワイフ
このそれぞれにおいて、ダッチワイフが持つことが期待される性のイメージの数量(ダッチワイフ−人間)は、次のようになる。
手塚:X(X>0) 是枝:0
手塚の作品において、Xは性教育的な内容において解決されていた。では、是枝の作品において問題になるのは何だろうか?
もちろんそれは、0(ゼロ)は可能か?ということである。
最初に言わせてもらえば、それは断じて不可能である。いくら“空気人形”と表現してみても、そしてまた、いくらダッチワイフと人間(ARATA)を“対等な関係で”(誤解を避けるために強調しておく)セックスさせてみても、それは依然として“ダッチワイフ”である事に変わりはない。何故ならば、それは、ダッチワイフ、だからだ。
この性のイメージの黙殺は、見ていて非常に痛々しかった。このせいで、この作品には「なぜ、ダッチワイフでなければならないのか?」という問題が常について回っている。あのペ・ドゥナ(空気人形)とARATAの対等な関係でのベッドシーンは、多少極端に言えば、まるで月とスッポンが両端に乗せられた天秤が釣り合っているような、非常に奇妙な光景なのだ。
しかしこの監督の技量には敬服する。というのも、このような根本的問題を抱えつつも、この映画は、綺麗で、かわいらしく、切なく、感動的であるからだ。むしろダッチワイフを0(ゼロ)的に扱う事は、この点においては功を奏しているように思われる(ダッチワイフが純粋であることにより、逆説的にその純粋さを強調している)。
この点を認めたうえでも、さらに一つ僕が疑問を感じるのは、果たしてあのラストのタンポポの綿毛に、登場した全ての現代人に対する救いを象徴させて良いものだろうか、という事である。この映画で扱われている心の病は、現代の日本にとって、非常に深刻な、重い問題であり、ファンタジックな逃避などへと帰結させるべきではないと、僕は感じるのだが。もちろんその重さは、タンポポの綿毛の軽さに比すまでもないであろう。
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