[コメント] かいじゅうたちのいるところ(2009/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
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一見して、あの原作をこうまとめたか!と、素直に感心はした。原作でやったのは、かいじゅう島に行って、かいじゅうたちの王様になり、一緒に遊んだ。と言うことしか描かれていない。遊びの種類はたくさん描かれていたものの、それ以外がほとんど描かれておらず、その”原作に描かれなかった”部分を描くことに映画は特化されている。 では、原作に描かれず、映画で描かれた部分とは何か。
原作のプロットは、いたずら好きの主人公マックスが母によって部屋に閉じこめられたところ、部屋の中が突然森になり、そして往復2年の旅とかいじゅうたちとの遊びを経て家に帰ってきたら、それはほんの数分の間の出来事だった、と言うなんか荘子の「胡蝶の夢」みたいな話だったのだが、これをジョーンズ監督は、かいじゅうの描き方を工夫して一種のメタフィクションとして仕上げてみせた。
原作も映画版も「これはマックスの夢」という可能性を持ってきているが、絵本版にプラスして映画の方は、かいじゅうたちをマックスの心の葛藤の姿として描いて見せたのだ。
改めて考えてみよう。かいじゅう島に住む住民たちはそれぞれ個性的だが、いくつか共通する部分がある。例えば、それぞれが全く違う姿をしている。性別ははっきりしているのに性的描写が一切ない。それぞれの性格が極端にはっきりしている。度々「食べる」ことに言及しているくせに、一切ものを食べている描写がない。などなど。
特に性格描写については見事に全員際だっているのが分かる。一人一人挙げると、キャロルはいつも誰かに愛されることを求めていながら、それを与えられないと暴力衝動に突き動かされる。サイの顔をしたジュディスはとても意地悪で、自分よりも弱い存在に対しては容赦なく精神的に追いつめる。そのパートナーであるアイラは気が弱く、いつも流されているがとにかく仲間に対しては優しい。山羊の顔をするアレクサンダーは臆病でいつも隠れようとする。鳥の顔をしたダグラスは理性的。牡牛の顔をしたブルは頑固。雪男(?)のようなKWは優しいが理知的。
かいじゅうたち一体一体はまるで異なっている。ただし、それらは実は全部一人の人間の中にある感情そのもの。彼らの性格の違いは、実はマックスの心の中にある葛藤そのものだとも言える。
母親と姉の愛が欲しいマックスは、二人にプレゼントを贈ったり、一緒にいることで自分を見てもらおうと一生懸命だが、心が繊細なので、ちょっと無視されたり、自分以外の人に心が向くと、途端に暴れはじめてしまう。かいじゅう島のキャロルが暴れているのは、まさにマックスの心の中が荒れているから。ひたすら暴れ、それで自分がよけいに傷つくことになる。そんなキャロルを見守り、時にいたわり、時に離れるKWもやはりマックスの中にある理性的な感情だし、他のそれぞれのかいじゅうも、やはりマックスの中にある感情を担当していると考えられよう。
そう考えると、ブルの立ち位置は結構おもしろい。彼はゴーイングマイウェイの性格で、他のかいじゅう達と行動が一致していても、それは単に他のかいじゅうに合わせてやっているだけ。劇中全くマックスに話しかけることがなかったが、最後のマックスの船出の時だけ一言声をかけている。彼の担当するのは「落ち着き」で、母に対する怒りがようやく収まった時、彼が感情の中で支配的になってきたことを表しているのだろう。
そして心が落ち着いたところで、マックスは家に帰り、母に見つめられながら食事をいただく。
ラストはやや中途半端な印象も受けるが、かいじゅう達はやっぱりマックスの中に住んでいる。だけど、少しずつかいじゅう達も折り合いがついていく。という解釈で良いのだろう。
そう見ると、本作は、子供の心象風景を物語仕立てにして描いた新しい切り口の物語として観ることができる。子供が本作を観た場合と、大人が観た場合とでは印象が全く変わるだろう。
心理描写にこだわるジョーンズ監督ならではで、絵本そのものではない、完全なジョーンズ監督作品として本作は観た方が楽しめる。ただ、これもジョーンズ監督らしく、物語展開のつなぎが悪く、退屈さを覚えるのも難点なのだが。
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