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[コメント] かいじゅうたちのいるところ(2009/米)

美しく透き通った映像と切なく弾む歌声とでつづられる、いつか迎えるべき「王国」の終わり。不安と背中合わせの躍動感が繰り返し胸を打つ、全編に映画的感動がみなぎる力作。(2011.9.8)
HW

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 物語として美しく感動的というのは、実を言うとそれほど貴重なことではないけれど、映画として美しく感動的というのは、やっぱり稀なこと。物語としてだけ見るならば、必ずしもきれいに解消され切らない淀みを残す分、この映画ではそのことが際立って感じられる。

 まず、完成度の高い映像世界。きぐるみとCGとの組み合わせによる「かいじゅう」たちの造形は、彼らにしっかり表情を与えつつも、風景との一体感を奪わない、そんな繊細な映像を成功させており、少年(マックス・レコーズ)の原石のような息づかいを削ぐことなく引き立てている。海岸・森・砂漠といった変幻自在の島の景観も映像的な統一感がきちんと保たれていて、嫌らしさのない、抑制の効いた独特の幻想性を確立している。ワイヤー・アクションも、こういう使い方があったか、とうなづける楽しい出来映え。クリーチャーが前面に押し出されたファンタジーものとしては数少なく、古びる心配なく鑑賞に耐える映像ではないだろうか。陽気と戦慄とがまぜこぜの泥んこ合戦のさなかで、「かいじゅう」たちの毛が風になびく、その自然な美しさが心地よい。

 それからこの映画、私にとってはなんといってもカレン・オー(Yeah Yeah Yeahs)の映画でもある。少年との一体感を誘いつつも、暖かく見守る視線の存在を予感させる彼女の歌声が映像に乗っかるたびに、嬉し涙のようなものがこみ上げて来そうになった。視線と言えば、よい映画はどれもそうだけれど、この映画、視線がすごく大切にされている。かまくらを潰されて呆然と涙目で見つめる少年を姉が冷たく見返すだけで、友だちの車に乗り込んでしまう冒頭のシーン。「かいじゅう」たちを引き連れて崖に辿りついた少年マックスが、KWの微笑みかけるような視線にふと気がついて振り返るシーン。視線の交わりを用いた、印象的なショットがたびたび挟まれる。「かいじゅう」たちの背の高さと頭の大きさも、見上げる・見下ろす、という視線の所在を何気なしに意識させる役割を担っているのかもしれない。そんな風にそっと織り交ぜられた視線のなかで激しく入り乱れる感情を、カレン・オーの表現力豊かな声と楽曲が支えているのではないだろうか。

 少年マックスがほかでもないKWの視線を気にしたのは、理由があるだろう。「かいじゅう」たちが揃って口にする「食べる」という行為について否定的なニュアンスを仄めかすKWは、「かいじゅう」の仲間であって「かいじゅう」でない存在。だから、マックスはその口に飲み込まれても食べられたりしない。飛びかかって来たマックスを笑って受け止め、一緒に砂丘を転がり落ちてくれたりしても、そこで抱かれている一体感は、キャロルに対してマックスが抱く一体感とはだいぶ違う。そのキャロルはと言えば、KWが自分をほったらかして「何を喋っているのか分からない」友達を家に連れて来るのが我慢ならない。そういえば、マックスがこれと全く似た感情を抱いた登場人物が一人いましたね。

 ママのいる家を飛び出したマックスは、「王様」になって、「かいじゅう」たちに「王国」を約束する。「かいじゅう」たちが「かいじゅう」たちのままでいられるような「王国」である。なにをしてもすべてが許される「王国」の「王様」なのだ。しかし、そんなものであろうとし続ければ、「王国」が外から壊されるよりも先に、いずれは内なる「かいじゅう」たちに食べられてしまう。寂しさを乗り越えて一緒にいるために「王国」や「王様」などいらなかったのだ。「王様」を卒業して「かいじゅう」たちと別れを交すとき、マックスはそれまでのものとは違う、乗り越える必要などない寂しさを知り、駆けつけたキャロルもまた慟哭する。叫びが重なり合うとき、彼らは自分の寂しさを抱えることで相手の寂しさを知り、「王国」の砦のなかで得た一体感よりも深く心を通わせるのだ。だから、少年マックスはママのもとへ駆け戻る。自分の寂しさと、なによりも自分を待つママの寂しさとを癒すために。

 ごく個人的な余談、その一。あれこれと思い出しながらメモをまとめていて、何かと似ていると気にかかっていたのだけれど、だいぶたってから気がついた、大塚英志と西島大介の絵本(?)『試作品神話』(2007)である。あちらのキーワードは「神様」と「楽園」で、そしてまた、「神様」を拾う側の物語だけれど、物語構造の根幹はよく似ている(というより、『試作品神話』が物語構造の基本形の開示として書かれているからなのだろうけど)。ただし、14歳の物語として書かれたあちらには、子どものままでいられる「楽園」を用意してくれる「神様」の存在など虚構に過ぎないと理解したとき、もう「ママ」の待つ「家」にも帰れない、そんな、「大人」へ向かう結末が用意されている。そういう意味で言うと、この映画は、必ずしも難解過ぎるとは思わないけれど、マックスの年頃の子どもに負わせるには過酷な物語なのかもしれない。

 ごく個人的な余談、その二。それにしても、事前情報に疎いおかげで、見ているあいだはフォレスト・ウィティカーにすら気がつかなかったのだけれど、エンドロールを眺めながら、ウジウジと気持ち悪くて愛おしくなるあのヤギの声の主はポール・ダノだったのか、と感心(もしもスーツ・アクターまでやっていたりなんかしたら、感心を通り越して危うく恋に落ちるところだったけれど、これは違ったみたいなので、ひとまず安心)。『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』といい、この人には、美形枠崩れの変態枠みたいなこの貴重な立ち位置を思う存分全うしてもらいたいと思います。って、あれ、CinemaScape のキャスト一覧には名前がない?

(評価:★4)

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