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[コメント] (500)日のサマー(2009/米)

そもそもズーイー・デシャネルを大して愛くるしいと思わないので、「サマー効果」がどうとか尤もらしく語るナレーションの、人生を俯瞰した神視点を初め、主人公が彼女に翻弄されるという物語の前提条件そのものが僕の中で不成立。
煽尼采

で、ズーイーさん、僕が彼女を映画で見かけたときにはいつも、どこか爬虫類的な曖昧な表情で、解読不能性を示す女性として現れることが多い印象。かのニーチェ師は、或る所でこんなことを言っていた――「空虚な、まるで中身のない女がいる。こうした女を追う男は哀れなものだ。だが、まさにこうした女こそ、最も男を惹きつけるのだ。彼は、女の中身を探す――いつまでも探し続ける」。本作に於いてズーイー演じるサマーなる女性は、言わば「魅力的な女の子」という記号として登場し、それ故に、主人公(ジョゼフ・ゴードン・レヴィット)はそこに色々と意味づけをしては裏切られ、を繰り返し、一人相撲的に勝手に翻弄される形になる。

サマーの言動は少なからぬ観客を苛立たせるものではあるだろうが、彼女と主人公の葛藤(主人公側だけが勝手に葛藤して見えるが)は、「友達」という言葉の外延をどこまで拡張できるかという点を巡る定義論争の様相を呈してもいるだろう。つまり、彼女の「友達」概念が適用される範囲は、主人公のそれに対して遥かに広い。主人公にとっては「友達」枠を破って「恋人」の外延に入っている状況でも、彼女の方では……というわけだ。

サマー視点のシーンが無いので、サマーの内面が実際はどうであったのか不明であり、一方的に彼女が勝手で空疎な女として描かれている嫌いはあるが、本作の主眼は、外からの影響で勝手な恋愛像を描いていた主人公が、具体的な存在としての彼女と遭遇することでひとつの覚醒を得ていく過程にあるのだから仕方ない。

サマーに対する主人公の想いが特に繊細かつ説得力ある形で演出されていたわけではなく、ミュージカル・シーンに見られるような、真の躍動や感動とは異質な割り切り方で撮ってしまえる結構ドライな感覚が全篇に見られるのが、この作品のどこか乗りきれないところ。時系列のシャッフルによって、本来なら時間の経過と共に浮き沈みするはずの主人公の感情が、「〜日目」という数字によってデジタルに分割処理されすぎにも思える。その一方、「〜日目」の表示シーンでペラペラと勢いよく捲られるページが、主人公の高揚感なり苛立ちなりとリンクして見えもするし、俯瞰視点の醒めた演出が、作品のテンポのよさやクールな笑いをもたらしてもいるのだけど。大して笑える箇所は多くなかったが。

あのナレーションの、妙に尤もらしく重厚な語り口が却って、悪い意味で胡散臭く感じられるのもマイナス。ドラマ『クリミナル・マインド』でマシュー・グレイ・ギュブラーを気に入った身としては、彼が映画に出て喋っているという、そこが最も愉しいのだが、なんだか素のキャラクターそのままで出ているような感も。

主人公の「建築家志望」という設定は、画家や音楽家や何かのように自らの情念を画面に充たすような存在ではなく、幾何学的な美と結びついている点で、本作の作風には合っていたと言える。尤も、ジョニー・トーの『単身男女』(良作!)のように、ビルという舞台やデザイン・センスなどが重要な鍵を握る作品の場合、また意味合いが違ってくるのだが。

(評価:★3)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)ぴよっちょ けにろん[*]

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