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[コメント] ボーイズ・オン・ザ・ラン(2010/日)

この映画は『ボーイズ・オン・ザ・ラン』という原作漫画と同じ名を持つが、果たして「ボーイズ」という複数形が指そうとしているのは峯田和伸のほかに誰なのか。まさか松田龍平ではあるまい。小林薫リリー・フランキー渋川清彦であるはずもない。であるならば答えは決まっている。ボーイズとは私たちである。
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この映画の中で私が思わず声を上げて笑ってしまったのは次の二ヶ所である。すなわち、峯田が同僚渋川の結婚披露宴で場違いなスピーチを敢行する場面と、カラオケで岡村孝子をフルパワー歌唱する場面である。笑いとはいかなるときに喚起されるのか。一般論として云えば、「あるべきさま」とのズレが生じたとき、人は笑う。野暮のきわみを尽してスピーチのシーンを例に取れば、まず峯田のスピーチは本来新郎新婦や披露宴出席者全体に向けてなされなければならないにもかかわらず、実際のところ黒川芽以のみに向けられた「個人的」メッセージにすぎない。またそこで具体的に取り上げられるのも露骨に「性的な」話題であり、これも披露宴には到底ふさわしくない。それでも峯田は峯田なりに披露宴スピーチの「あるべきさま」に近づこうと語彙を探し、「フェラ」を「尺八」次いで「口淫」と云い換えるなどする。そもそもの方向性を誤ったその努力のために「あるべきさま」からのズレはねじれを抱え、観客のさらなる笑いを呼ぶ。

云うまでもなく、上に述べたものは一例にすぎない。自身と「あるべきさま」との関係を調停しようと奮闘しながらも、どうしようもなくズレてしまう、というのが峯田のキャラクタの本質だ。不出来な愛想笑い。「ぶん殴りに伺いますから」という言葉遣い。『タクシードライバー』のロバート・デ・ニーロにならったモヒカンヘアに眼鏡・ビジネススーツを取り合わせるという衣裳の不均衡。確かにそれらはときに笑いを生むだろうし、あるいは却って居住まいを正させるように働くこともあるかもしれない。しかし「自身と『あるべきさま』との関係を調停しようと奮闘しながらも、どうしようもなくズレてしまう」という自意識を持たない人間がどれほどいるだろうか。ありとあらゆる状況における「あるべきさま」のすべてに適っている人間など存在するはずがない。また「あるべきさま」という一種の規範意識からどこまでも自由でいられる者もほとんどいないだろう。だから、程度の差こそあれ、この峯田は「本質的に」私たちなのだ。峯田を見て生じた私たちの笑い声がかすかな(心の動揺を反映した)震えを含んでいたとすれば、それは峯田が私たちの鏡像であったからにほかならない。

(評価:★3)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)まー[*] ぽんしゅう[*]

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